軍艦~warship~

主に日本海軍の艦艇について

日本海軍 通史と類別

  軍艦とは、各国の軍隊に所属し、国籍が明示され、士官の指揮下にあり、軍隊規律に従った乗組員が配置された船舶のことです。
軍艦旗が掲げられ軍隊に属する士官を含む乗組員がいれば、陸軍が有する非武装の輸送船も軍艦といえます。ただ一般的には、海軍に所属し戦闘力を持つ艦船を指して軍艦と呼びます。
ちなみに、日本海軍(大日本帝国海軍)では、艦首に菊花紋章がついた艦艇を軍艦と定義していました。

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日本海軍は、1872年(明治5年)に海軍省が設置され、江戸幕府からの接収したものに諸藩から献上されたものを併せた17隻で始まり、軍艦は14隻で、残り3隻は「××丸」と名付けられた運送船でした。
四方を全て海で囲まれた島国であるため海軍の整備は急務と考えられ、イギリスに建造を依頼したり、士官養成のための兵学校を設立します。また、横須賀に造船所を建設し、フランス人技師を招いて軍艦の国産化を目指します。
征韓論台湾出兵などにより清国との関係性が悪化し戦争化が免れないという状況となりますが、清国の方でも対日戦争は不可避と判断し主砲4門を持つ「定遠」「鎮遠」という最新鋭の戦艦を用意します。それに対し、当時の日本は財力が不足しており「定遠」を上回る戦艦を建造することはできず、そこで小型ではあるものの高速の巡洋艦を多数用意して対抗する方針とし、装備する艦砲もイギリスのアームストロング社製速射砲に統一しました。ただ、それだけでは不安を感じ、1門だけですが「定遠」を上回る主砲を持つ三景艦「松島」「厳島」「橋立」という防護巡洋艦も用意しています。
そして日清戦争直前には31隻の軍艦を有するようになり、それを当時唯一の戦艦であった「扶桑」をはじめとする優秀艦からなる常備艦隊と、主に警備や哨戒を担当する旧式艦や小型艦の西海艦隊の2つの艦隊が設けられ、日清戦争時には常備艦隊と西海艦隊を合わせた「連合艦隊」として運用されました。

日清戦争勝利し、清国から「鎮遠」等を編入し多少は増艦したものの、海軍力としては未だ整備された状態ではありませんでした。特に、三国干渉後の日露関係の悪化からロシアを仮想敵国とした場合、その戦力差は大きなものとなっていました。そこで、1896年提案の『海軍拡張計画』により、まずは戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる六六艦隊を実現させ、他に防護巡洋艦6隻や駆逐艦23隻、水雷艇63隻等も建造し、イギリス、フランス、ロシアといった海軍国に次ぐ規模にまで成長させています。
この頃の海軍の艦艇は、軍艦と運送船といった類別ではなく、1898年(明治31年)の「海軍軍艦及水雷艇類別標準」の制定により、軍艦という大型船と水雷艇という小型船の2種に分けられるようになります。駆逐艦は、もともとは水雷艇駆逐艇と呼ばれ、水雷艇を駆逐するための船艇でしたが、徐々に大型化し駆逐艦と呼ばれるようになりましたが、日本海軍での類別では軍艦に組み込まれることはありませんでした。
1902年には世界一の海軍力を誇るイギリスと日英同盟を結び、戦略的にも日露戦争に向けた準備をとるようになり、連合艦隊も、戦艦6隻の第一艦隊、装甲巡洋艦6隻の第二艦隊、日清戦争時の主力艦からなる第三艦隊として構成し直されます。
ロシアは、旅順とウラジオストックに極東艦隊を配置し、本国側には主力といえるバルチック艦隊を有しており、日本海軍の2倍程度の勢力保有している状態でした。しかし、日露戦争が始まると、ロシアはバルチック艦隊バルト海から日本まで、ほぼ地球を半周させる必要があり、それまで日本海軍は極東艦隊のみとの戦闘となります。新型艦により統一された戦闘が行なえる日本海軍が優勢となり、バルチック艦隊がインド洋マダカスカル島を進んでいる頃、極東艦隊は全滅してしまいます。そして、バルチック艦隊日本海に到達し日本海海戦が始まりますが、長い航海を続け疲弊が溜まるバルチック艦隊に対し、整備と訓練を重ねていた日本海軍は圧勝といえる成果をあげました。この戦勝により、日本は世界の一等国の仲間入りを果たします。

ところで、イギリスは日露戦争での海戦結果を教訓として、新たな戦艦「ドレッドノート」を建造します。これは主砲の口径や砲門を強化して1隻で2隻分の戦闘力を持ち、機関もレシプロからタービンへと改良することで高速化を実現したものです。この艦の出現により、それまでの軍艦は全て旧式とされ、戦力とみなされないような位置づけになります。日本海軍は軍艦の国内建造化が進展していたところでしたが、「ドレッドノート」級の建造技術は有しておらず、またイギリスに巡洋戦艦金剛」の建造を依頼します。ただし、「金剛」から最新技術を習得してスキルを向上させ、あらためて国内建造を推進していきます。
その頃、欧州では露西亜に変わりドイツが海軍国として成長し、イギリスと覇権を競うようになり、第一次世界大戦へと向かいます。日本も参戦はしますが、ほとんど戦闘を行なうことはないまま、戦勝国となります。

第一次世界大戦後は戦火を交えたイギリスは国力が低下し、その代りイギリスと同盟関係にあった日本とアメリカの軍事力が増強されることとなりました。そこで、太平洋を挟んで隣国となる日本とアメリカは徐々に敵対関係となり、日本はアメリカを仮想敵国として軍事力強化を図ることになります。
日米とも軍艦建造競争が激しくなるとともに国家財政へと影響を与えるようになり、ワシントン及びロンドンでの軍縮会議が開かれますが、最終的には帝国主義的は世界情勢から、無条約状態となり戦艦「大和」「武蔵」といった戦争に向けた軍艦建造へ盲進する、後戻りができない果てしなき道を突き進んでいくこととなります。

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軍艦の類別

第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まる頃の日本海軍には、軍艦として戦艦・航空母艦巡洋艦水上機母艦潜水母艦敷設艦・練習戦艦・練習巡洋艦・砲艦・海防艦が存在し、艦首に菊の紋章が許されましたが、駆逐艦・潜水艦は、その他の船艇とともに軍艦としては位置づけられませんでした。

戦艦

主砲により敵の艦船を攻撃する艦艇で、艦隊の主力といえるものです。かつては、装甲を強化するため速度が犠牲になっており、軽装甲で速度重視の戦艦を巡洋戦艦として建造していましたが、機関の改良や装甲技術の高度化により高速で重装甲の戦艦が建造できるようになり、巡洋戦艦という艦種はなくなりました。日本海軍の代表的な戦艦として「大和」「武蔵」「長門」などがあります。

航空母艦

飛行甲板を持ち航空機を搭載して敵を攻撃する艦艇で、略して「空母」と呼ばれます。海戦の主体が砲撃から空撃へと移ったことから、艦隊の主戦力になります。艦種としては1920年頃に生まれたもので、当初は水上機母艦を指していましたが、飛行甲板を設けることにより通常の航空機を艦載する航空母艦を指すようになり、水上機母艦と区別されるようになります。日本海軍の代表的な空母として「赤城」「加賀」「翔鶴」などがあります。

巡洋艦

快足を活かし偵察や索敵、襲撃を行なう、戦艦に次ぐ艦隊の主力艦艇で、基準排水量や備砲の口径により戦艦と差別化しています。また、同様な区別により「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」に分類わけしています。代表的な重巡洋艦としては「妙高」「高雄」「最上」などがあり、軽巡洋艦には「長良」「阿賀野」「大淀」などがあります。

水上機母艦

水上機を搭載し主に偵察を行なう艦艇で、当初は「航空母艦」と呼ばれていましたが、航空甲板を持つ空母が建造されるようになり差別化されました。代表的な水上機母艦として「千歳」「千代田」がありますが、この2隻は空母へと改装されています。他に「瑞穂」「秋津洲」などがあります。

潜水母艦

潜水艦の補給や乗組員の休養に使われる艦艇で、最初は水雷母艦でしたが、潜水母艦と名称変更されたものです。代表的な潜水母艦として「迅鯨」「大鯨」「剣埼」がありますが、「大鯨」は空母「龍鳳」に、「剣埼」は空母「祥鳳」に改装されました。

砲艦

中国の揚子江流域に常駐させた河川用艦艇で、小型軽武装となっています。最初の砲艦「宇治」は国産艦艇で、日本海海戦にも参加した航洋型砲艦でしたが、続く「隅田」「鳥羽」「勢多」などは河川用に特化した航洋性の無い艦艇です。その後は、航洋性のある「嵯峨」「安宅」などや河川専用の「熱海」などが建造されました。ちなみに、1944年(昭和19年)の類別の改定で、砲艦は軍艦から除かれます。

敷設艦

機雷を敷設するための艦艇で、敵潜水艦の侵入を防ぐ防潜網を展開することもありました。当初は日露戦争の戦利艦を転用していましたが、「勝力」を新造し、その後「厳島」「八重山」などを建造します。また防潜網の敷設に特化した急設網艦「白鷹」なども建造されています。

海防艦

老朽化した戦艦や巡洋艦などが転籍し沿岸防衛などのほか外交任務にも就くことがある艦種で、旧式といえども歴戦の勇艦であるため、艦長は大佐が務め艦種には菊の紋章が付けられました。ところが、太平洋戦争開戦を見据え北方警備を担当する新造艦として「占守」が建造され、開戦後は護衛艦としての海防艦の必要性が高まり「択捉」「御蔵」「鵜来」などが大量に建造されることになり、1942年(昭和17年)に軍艦から独立します。より小型化、簡易化した砲艦も建造されましたが、そちらには艦名はなく番号が振られました。

練習戦艦

ロンドン軍縮条約により既存艦の削減が求められ、巡洋戦艦比叡」が対象となり、武装・装甲・機関の一部を軽減して保有することが認められ、練習戦艦と呼称されることとなりました。練習戦艦は「比叡」1隻だけです。

練習巡洋艦

士官候補生の遠洋航海などの教育訓練を目的とした艦艇です。最初は日露戦争時の装甲巡洋艦を利用していましたが、老朽化や士官増員に対応するため、練習艦任務に特化した巡洋艦を用意することとし、「香取」「鹿島」「香椎」の3隻が建造されています。教育目的から設備としては充実していることから、戦時には艦隊旗艦として活用されました。

駆逐艦

敵の水雷艇を撃退するための艦種で駆逐艇と呼ばれていましたが、魚雷を搭載するようになり水雷艇の役目も併せ持ち、船体が大型化することにより駆逐艦と呼称されます。水上艦艇でもっとも高速であるため、雷撃戦の主役としてはもちろんのこと、艦隊の警戒や護衛としても重用されることとなり、数多く建造されました。代表的な駆逐艦としては「吹雪」「秋月」「島風」などがあります。

潜水艦

海中に潜航できる艦艇で、当初は潜水艇と呼ばれて湾内など艦艇泊地での活動でしたが、ドイツのUボートの技術を導入し巡洋型潜水艦が建造されるようになりました。大小様々な潜水艦がありますが、中には水上攻撃機を搭載する潜水空母ともいうべき潜水艦も建造されています。潜水艦には艦名はなく、大型の一等艦は「」号、中型の二等艦は「」号、小型の三等艦は「」号とし、それに続けて番号が振られていました。

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軍艦の艦名

日本海軍創設からしばらくは自由に付けられていましたが、日露戦争後に艦種ごとに命名基準が設けられます。

 戦艦旧国名大和」「武蔵」など、「扶桑」は日本国の異称

 重巡洋艦巡洋戦艦):山岳名「金剛」「比叡」「妙高」「高雄」など

 軽巡洋艦:河川名「天龍」「長良」「阿賀野」「大淀」など

 練習巡洋艦:神社名「香取」「鹿島」「香椎

 航空母艦:空を飛ぶ瑞祥動物から「鳳翔」「飛龍」「翔鶴」など
      空母量産により山岳名を追加「葛城」「天城」など

 水上機母艦:瑞名「千代田」「千歳」「瑞穂」など

 潜水母艦:鯨が付く語「迅鯨」「長鯨」「大鯨」など

 一等駆逐艦:天候や海洋に関係する「吹雪」「朝潮」「陽炎」など

 二等駆逐艦:植物名「」「若竹」「」など

 潜水艦:大型は「」、中型は「」、小型は「」とし、番号を採番

 砲艦:名所旧跡名「宇治」「嵯峨」「熱海」など

 敷設艦:島名「厳島」「八重山」など、設網艦は鳥名「白鷹」など

 海防艦:島名「占守」「択捉」「御蔵」など

 特務艦:海峡や岬、半島の名など
  工作艦明石給油艦知床」「剣埼給糧艦間宮運送艦宗谷

 水雷艇:鳥名「千鳥」「友鶴」「」など

計画や建造の途中、あるいは改装により艦種が変わることがありましたが、その場合でも元の艦名を引き継ぎました。
 「赤城」計画時は巡洋戦艦であり山岳名がつけられたが、空母に改装
 「加賀」計画時は戦艦であり旧国名がつけられたが、空母に改装
 「金剛」「比叡」など 巡洋戦艦から戦艦に変更となったが、艦名はそのまま
 「最上軽巡洋艦として計画し河川名であったが、重巡洋艦に改装
 「千代田」「千歳水上機母艦から空母へ改装したが、艦名はそのまま

ただし、潜水母艦から空母への改装では艦名が変わっています。
 「大鯨」は「龍鳳」に、「剣埼」は「祥鳳」へと変更

 

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