軍艦~warship~

主に日本海軍の艦艇について

日本海軍 創設

  

 < public domain >

f:id:hideue:20170722115317j:plain

明治維新後に軍事防衛を管轄する機関として設置された兵部省は1872年(明治5年)に廃止となり、陸軍省海軍省が新設されます。
この時に創設された日本海軍(大日本帝国海軍)は、幕府や諸藩の艦艇を編入し、次の17隻で構成されていました。
軍艦としては「」「龍驤」「富士山」「筑波」「春日」「日進」「鳳翔」「雲揚」「第一丁卯」「第二丁卯」「乾行」「孟春」「摂津」「千代田形」の14隻があり、正式名としては「艦」が付き「東艦」「富士山艦」などと呼ばれていました。他に「大坂丸」「風丸」「風丸」という運送艦が3隻あり、計17隻になります。

  

日本海軍創設時の艦艇

  

< public domain >

f:id:hideue:20170722114649j:plain

(あずま)

元々はアメリカの南北戦争で使われるはずだったフランス建造の装甲艦ストーンウォール」を幕府が購入する手配を進めていたが、明治維新により新政府が購入することとなった。その当時、唯一防御装甲のある軍艦であり「甲鉄」と呼ばれていたが、日本海軍編入後に「東艦」と改められている。ただ、排水量は1358tで砲門は6門という当時としては中規模の大きさであった。

  

龍驤(りゅうじょう)

熊本藩がイギリスに発注した軍艦。木造船体であるが舷側に鉄製装甲帯をもつ装甲コルベットと呼ばれるもので、排水量は2530tあり砲門は10門持ち、当時の日本海軍では最大の大きさと最強の武装を誇るもので、実質的な旗艦の役割を果たしていた。

  

富士山(ふじやま)

幕府がアメリカに発注した3隻のうちの1隻として完成した排水量1000tで砲12門を持つ軍艦であるが、下関戦争が勃発したため、リンカーン大統領が出航を差し止め、残2隻の製造が中止されたという経緯がある。1866年(慶応元年)に幕府に渡された後、明治新政府に移管され、海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)開設時に初代練習艦となった。

  

筑波(つくば)

イギリス海軍が建造した「マラッカ」を購入し「筑波艦」と改名した砲9門の軍艦。海軍兵学寮(海軍兵学校)の練習艦となったが、世界で最初の円缶搭載艦で排水量は1947tあり、サンフランシスコまで航海するなど遠洋練習航海が行なわれた。

  

春日(かすが)

キャンスー」というイギリス船籍の木製外輪船を薩摩藩が購入し「春日丸」と改名された軍艦で、排水量は1015tで大砲は6門を備えていた。後の海軍提督である東郷平八郎が三等砲術士官として乗船しており、阿波沖海戦で幕府海軍の軍艦「開陽丸」と砲撃戦を行なっている。その後も、宮古湾海戦箱館湾海戦等で活躍し、明治新政府に移管された際に「春日艦」となる。

  

日進(にっしん)

佐賀藩がオランダに発注した本マストの蒸気帆走船で、1869年(明治2年)に完成し、翌年6月に海軍籍となり「日進艦」となる。排水量は1468tあり兵装も10門有していたため、主力艦として台湾出兵朝鮮半島警備等で活躍した。

  

鳳翔(ほうしょう)

長州藩がイギリスに発注した木製帆走船で、新政府に献納され、1871年(明治4年)に「鳳翔艦」と命名された。排水量321tという小型艦ながら砲門4門を有しており、初期の日本海軍の貴重な戦力であり、1899年に除籍されるまで28年間在籍した長寿艦であった。

  

雲揚(うんよう)

鳳翔」と同じ時期に長州藩がイギリスに発注した木製帆走船で、排水量は245tと小さいながらも大きさはほぼ同じサイズであった。1875年(明治8年)に日本と朝鮮の間で発生した武力衝突事件である江華島事件では、朝鮮の江華島と永宗島の砲台から「雲揚」が砲撃を受けたため、反撃砲撃をし交戦となり陸上砲台を破壊し占領している。

  

丁卯(ていぼう)

1867年(慶応3年)に長州藩がイギリスに2隻発注した木造汽船で、この年が十干十二支のひとつ「ひのとう(丁卯)」にあたることから「丁卯」と名付けられ、同型艦であるため「第一丁卯」「第二丁卯」となった。排水量は236tと小型であり大きさと性能ともに同じであるが、砲門は「第一丁卯」が6門で「第二丁卯」が8門あったといわれている。

  

乾行(けんこう)

薩摩藩イギリス海軍砲艦をしていた「トーク」を購入して「乾行丸」と命名した軍艦で、1870年(明治3年)に献納されて海軍籍となり「乾行艦」と改名し、その後、繋留練習艦となる。排水量522tで兵装は砲9門を備えており、戊辰戦争時の寺泊沖海戦に「第一丁卯」とともに参加して旧幕府の輸送船「順動丸」を砲撃戦の末、自沈させている。

  

孟春(もうしゅん)

佐賀藩がイギリスで建造された砲艦ユージニー」を購入して「孟春丸」と命名した軍艦で、1871年(明治4年)に献納されて海軍籍となり「孟春艦」となる。排水量357tで砲4門と小型艦ではあるが、台湾出兵江華島事件西南戦争に参加した。

  

摂津(せっつ)

アメリカで建造され南北戦争時には北軍で使用されていた「コヤホッグ」という砲艦を1868年(慶応4年/明治元年)に購入して「摂津丸」と命名した。排水量920tで砲8門を持ち、翌年に広島藩に貸与されたが、1871年に変換されて「一番貯蓄船(いちばんちょちくせん)」と改名する。1874年に「摂津艦」と改名した後、海軍省内堀に係留され練習艦として使用された。

  

千代田形(ちよだがた)

幕府が石川島の造船所で建造した国産蒸気砲艦で、量産化の計画があったため千代田「形」としたが、2番艦以降は建造されなかった。函館戦争座礁した後、漂流していたところを新政府軍が接収し、艦名を「千代田形艦」とし海軍兵学寮(海軍兵学校)の練習艦として使用される。

  

大坂丸(おおさかまる)

元は1866年(慶応2年)にイギリスで竣工した鉄製気船「OSAKA」で、豊津藩が購入した後、1870年(明治3年)に献納されて「大坂丸」と命名された。1871年に護送船、翌1872年に輸送船と定められ、1875年12月25日に長崎から東京へ兵器を輸送中に周防灘で「名古屋丸」と衝突し沈没した。

  

風丸(しゅんぷうまる)

カナダで建造された木造帆船で運送船として使用されていたが、1873年(明治6年)に海軍省へ移管し「肇敏(ちょうびん)」となる。1877年の西南戦争で輸送任務に従事した後、練習船に指定され、1879年になって「肇敏艦」と改名した。

  

風丸(かいふうまる)

アメリカの木造帆船「ゴーウルノルワラス」を備中松山藩が購入し「風丸」と命名した。1868年に軍務官所管となり、1869年に兵部省(陸軍部)所管となった後、兵部省(海軍部)に移管され1881年まで石炭輸送等に従事していたが売却されている。

< public domain >

f:id:hideue:20170722121652j:plain

こののち、海軍力強化のため、軍艦の増強を図ることとしますが、日本はまだ軍艦の造船技術が未熟であったため、当時としては最先端の技術力を誇っていたイギリスに戦艦扶桑巡洋艦金剛」「比叡」の3隻を発注することとしました。ただ、軍艦の国産化も目指す必要があることから、造船所を建設して外国人を招き国産軍艦の建造も進めています。1873年(明治6年)に横須賀の造船所にてフランス人技師の指導の下、日本初の軍艦「清輝」が起工され、二年半後に竣工しています。排水量897tで、15センチ砲1門、12センチ砲4門、6ポンド砲1門、機砲3基という兵装であり、日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征をしています。

< public domain >

  

f:id:hideue:20170722121849j:plain

扶桑(ふそう)

イギリスに発注した最初の装甲フリゲイトで、1878年(明治11年)に日本に回航され、最新鋭艦であったため、天皇のお召艦としても使用された。排水量は3717tと日本では最大規模であるが、当時の欧州の主力艦は10000t以上であったためミニ戦艦であり、近距離は蒸気機関で航行し長距離は帆走するという機帆併用船であった。帆は燃えやすい上に砲撃戦時は邪魔となるため、帆装は撤去し蒸気船へと近代化改装が行なわれ、併せて武装も新型の速射砲と水上魚雷発射管が搭載されている。日清戦争に参加した後、「松島」と衝突し沈没したが、浅瀬であったため引き上げることができ修理をして日露戦争にも参加している。

  

金剛(こんごう)・比叡(ひえい)

イギリスに発注した最初の装甲コルベットで、「金剛」と「比叡」は同型艦であり、1878年(明治11年)に日本に回航されている。排水量は2250tと「扶桑」よりは小さく巡洋艦と呼ばれた。両艦そろって士官候補生の実習訓練で地中海方面遠洋航海に従事し、1890年には座礁沈没したトルコ軍艦「エルトゥールル」号の生存者をコンスタンチノーブルへ送還している。その後、日清戦争日露戦争に従軍した後、1909年に「金剛」、1911年に「比叡」が除籍となり、売却されている。

 

記事のトップへ戻る