軍艦~warship~

主に日本海軍の艦艇について

日本海軍 日露戦争

    

日清戦争後、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉で清国に遼東半島を返還することとなりましたが、ロシアは清国と露清密約を結んで遼東半島の南端の旅順と大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順にはロシア太平洋艦隊の基地を造ってしまいます。東アジアにおける南下政策を推し進めたいロシアは、1900年に義和団の乱北清事変)が起きると、その混乱に乗じて満州を占領し植民地化しようとします。それに対し日英米が抗議をすると撤兵を約束するものの、実際は撤退せず逆に駐留軍を増強してしまいます。当時ヨーロッパにおいてロシアと敵対していたイギリスは、ロシアの南下により清国における権益が危険にさらされると感じていましたが、南アフリカボーア戦争で国力が低下していたため、孤立政策を捨て日本と同盟することとし、1902年に日英同盟を締結しました。1903年になり日露間で交渉が始まり、朝鮮半島は日本、満州はロシアをそれぞれ支配下に置くという妥協案を日本からロシアに提案しますが、ロシアからは、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるとの回答します。これでは、朝鮮半島が事実上ロシアの支配下にされ、日本の独立も危ぶまれると考えられ、またシベリア鉄道が全線開通すると軍隊移動が容易になるので、その前に開戦すべきとの判断から、1904年2月6日に日本よりロシアに対し国交断絶を通知し、戦争が避けられない状態となりました。
日本海軍は、ロシアとの戦争を想定した軍備拡張を推進していました。まず、三国干渉直後に戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻を主力とする六六艦隊計画を構想します。日清戦争での海戦では高速の巡洋艦による速射砲攻撃で勝利を収めたことから、巡洋艦も主力艦艇と位置づけています。実は日清戦争を控えた1893年の建艦計画に基づき戦艦建造予算が申請されていましたが、高額の費用となるため当時の帝国議会が要求を否決したところ、それを明治天皇が憂慮し皇室費用等を削減し戦艦購入資金とする詔勅により、イギリスに戦艦2隻の発注をしたという経緯があります。それが「富士」と「八島」の2隻で、排水量が12000tを超える日本海軍待望の本格的な初の戦艦となりました。それに続く4隻は「富士」をベースに改良を施して建造された「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」で、当時としては世界最大で最新鋭の戦艦でした。装甲巡洋艦は外交上の配慮から、イギリスばかりでなくドイツとフランスにも建造を依頼することとしましたが、各国の建艦技術を習得する機会にもなりました。ドイツには「八雲」1隻、フランスには「吾妻」1隻、そしてイギリスに「出雲」と「磐手」の2隻の建造を発注しますが、ロシア海軍がハイペースで増強していることを知り、イギリスで建造中の装甲巡洋艦を買い取り「浅間」「常盤」とし、合計6隻が揃うこととなりました。
日本海軍は六六艦隊が用意できたことから、それまでの常備艦隊を解散し、1903年12月に戦艦6隻を中心とする第一艦隊と装甲巡洋艦6隻を中心とする第二艦隊を組織した上で、それを統合する連合艦隊を編成し、連合艦隊司令長官には東郷平八郎中将を任命します。ちなみに、ロシアとの開戦後、日清戦争時の主力艦で構成した第三艦隊も連合艦隊に編入します。
ところで、もはやロシアとの戦争は不可避と考えていたため、継続して軍艦の増強が必要と判断し、イタリアでアルゼンチン海軍向けとして完成間近であった装甲巡洋艦を購入します。「春日」「日進」と命名された2隻は、開戦後6日目に日本に回航され、日本海軍は巡洋艦8隻体制で戦うこととなります。

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Japanese_battleship_Shikishima_on_Battle_of_the_Yellow_Sea

    

日露戦争

1904年(明治37年)2月6日の国交断絶通知後、最初に行なわれた戦闘は仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)で、仁川港にいたロシアの防護巡洋艦ワリャーグ」と航洋砲艦コレーエツ」を、第四戦隊の巡洋艦(「浪速」「高千穂」「明石」「新高」)と装甲巡洋艦浅間」、防護巡洋艦千代田」、それに第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻が攻撃し、「コレーエツ」は自爆し「ワリャーグ」は自沈しています。
初戦で敗北したロシア極東の旅順艦隊は日本海軍との戦闘を避け旅順港に籠り、ロシア海軍の本隊といえるバルチック艦隊の到着まで戦力を温存する作戦をとります。日本としては、陸戦隊を海上輸送する上で制海権が必要があり、ロシア極東艦隊を無力化させなければならず、そのために旅順港閉塞作戦を展開します。旅順港は湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させて閉じ込めてしまおうというものですが、複数回にわたり閉塞作戦を実施するものの実効を上げるには至りませんでした。ただ、4月の第七次攻撃の時、ロシア戦艦「ペトロパヴロフスク」が日本の敷設した機雷に触れ、砲弾と魚雷の誘爆を招きボイラーも爆発したことにより沈没し、座乗していた艦隊司令官のステパン・マカロフ中将が戦死します。逆に、5月にはロシアの機雷敷設により、日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」、それに通報艦宮古」と駆逐艦」が触雷し沈没しています。また、濃霧での行動により視界不良となり、防護巡洋艦吉野」が装甲巡洋艦春日」に衝突されて沈没し、砲艦「大島」も砲艦「赤城」に衝突されて沈没します。日本海軍は、わずか数日で戦艦を含め複数艦を一挙に失うという災難に見舞われます。併せて、9月には駆逐艦速鳥」、12月には防護巡洋艦高砂」が触雷により沈没し、砲艦「愛宕」は10月に座礁沈没しており、旅順港閉塞作戦では多くの艦艇を失っています。第一艦隊は戦艦2隻を失ってしまいますが、その代わりに装甲巡洋艦春日」「日進」を組み込んで6隻編成は維持します。
海上からの攻撃は難しいとの判断から陸戦部隊による砲撃に切り替えたところ、戦艦「ツェサレーヴィチ」「レトヴィザン」などに損傷を与えることができ、司令官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将も負傷してしまいます。そこで、旅順艦隊は危険を回避するためにウラジオストクに移動を図りますが、それを待ち構えていた連合艦隊が攻撃をしかけ黄海海戦(こうかいかいせん)となります。しかし、旅順艦隊は応戦せず逃亡を試みたため、連合艦隊が追いつき砲撃をしたところ、「ツェサレーヴィチ」の艦橋に直撃し司令官のヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将が戦死します。それにより、ロシア旅順艦隊の大半は再び旅順へと逃げ戻りますが、各艦が受けた損害を修復する力はなく、ただ存在するのみといった状態になります。極東艦隊のうち、「ツェサレーヴィチ」は旅順に戻れず駆逐艦3隻とともにドイツ租借地の膠州湾に逃げ、また、防護巡洋艦アスコリ」と駆逐艦1隻は上海、防護巡洋艦ディアーナ」はフランス領インドシナサイゴンで抑留されます。防護巡洋艦ノヴィーク」は樺太コルサコフ沖で追撃してきた防護巡洋艦千歳」「対馬」とコルサコフ海戦を戦った末に放棄されますが、後に日本が樺太を占領した際に浮揚され修理し通報艦鈴谷」として日本海軍に編入されます。
また、ロシア極東のウラジオストク艦隊は日本の通商破壊行動を行なっていましたが、日本海軍は捕捉できずにいたところ、旅順艦隊のウラジオストク移動と同期をとって装甲巡洋艦ロシア」「グロモボイ」「リューリク」3隻が出撃し朝鮮半島蔚山沖を航海していたところ、連合艦隊第二戦隊(「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」)に発見されます。ウラジオストク艦隊は逃亡を図りますが、北上してくる「浪速」に挟まれる形となり、そこで蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)が行なわれます。砲撃戦の中、「リューリク」が集中砲火を浴びて戦列を離れることとなり、「ロシア」「グロモボイ」はウラジオストクに帰還できましたが、「リューリク」は「浪速」と途中から参戦してきた「高千穂」の攻撃を受けた後、自沈します。その間、ウラジオストク艦隊の補助巡洋艦レナ」はサンフランシスコに逃走しますが抑留されてしまい、ウラジオストクに戻った「ロシア」「グロモボイ」も破損がひどく修理が捗らない状態であり、ウラジオストク艦隊は機能不全となります。
これにより、日本海制海権を確保した日本海軍は、ロシア海軍バルチック艦隊の到着するまで、各艦を修理整備し、射撃訓練等を重ねることもでき、準備万端といえる状態でバルチック艦隊を待ち受けることができました。
ロシア側は、バルチック艦隊により日本海制海権を奪うことで日本の補給線を断ち、朝鮮半島日本陸軍を孤立させることを狙いとしており、バルチック艦隊と日本の連合艦隊との決戦が日露戦争の帰趨を決するものと位置づけられることとなりました。当初は旅順を目指していたバルチック艦隊ですが、日本陸軍により旅順が攻略されたことにより、目的地をウラジオストクに変更します。そこで、日本海軍は対馬海峡を通過し日本海を北上してウラジオストクに向かうものと想定しますが、その予想通りにバルチック艦隊は現れ、雌雄を決する日本海海戦が行なわれます。
1905年(明治38年)5月27日午後、両艦隊は接近し戦闘状態に入ります。バルチック艦隊は旧式軍艦が含まれる混成編成であり、ヨーロッパからの半年以上に亘る回航により艦艇も兵士も疲弊していましたが、連合艦隊は新造の軍艦で兵装も統一されており、前年8月の蔚山沖海戦以降は整備と訓練で精度も向上しています。艦隊戦が始まると、高速船による命中度の高い砲撃で連合艦隊は次々と戦果を上げていきますが、特に砲弾の違いによりロシア軍艦は無力化されてしまいます。ロシアは高初速軽量の徹甲弾であったため遠距離砲戦では威力が減衰し命中しても穴を空けて突き抜けるだけですが、日本は徹甲榴弾による速射砲であり下瀬火薬を採用したことにより着弾後すぐに火災を発生させます。そのため、ロシア軍艦は砲撃による沈没というよりは艦上での大規模な火災により攻撃不能とさせられ機関にも延焼し航行もできなくなって沈没するという状態になります。日本海軍は、日中の砲撃戦の後、夜間には駆逐艦水雷艇による魚雷や連繋水雷で攻撃し、翌日はまた砲撃戦による追撃を繰り返すという波状攻撃を行ないます。ついにはバルチック艦隊は壊滅状態となってしまい降伏を宣言したため、日本海海戦は終了を迎えます。連合艦隊の損失は水雷艇の沈没3隻だけでしたが、バルチック艦隊は沈没が21隻を数え、6隻は拿捕されてしまい、他に6隻が逃走したものの抑留され、ウラジオストクに入港できた艦艇は防護巡洋艦1隻と駆逐艦2隻しかないという状態であり、また司令官が捕虜として拘束されるなど、大艦隊の決戦としては史上稀に見る一方的な勝利という結果になりました。
日本海海戦の結果、バルチック艦隊を壊滅され日本海制海権を奪うことのできなかったロシアでは、帝政に対する国民の不満も増大し革命の萌芽といえる血の日曜日事件も発生し、戦争継続が困難な状態に陥ります。日本も国力を上げた戦争であったため、戦費はかさみ国内産業も稼働低下し国力の消耗は激しいものとなっていました。そこで、アメリカの仲介による終戦交渉に臨みますが、その間に日本軍は樺太攻略作戦を実施し全島を占領しています。

1905年(明治38年)9月になり「ポーツマス条約(日露講和条約)」を締結し、日本は満州南部の権益と朝鮮半島大韓帝国)に対する排他的指導権を獲得し、樺太南半分を領土として譲渡されますが、戦争賠償金は放棄することとなりました。賠償金が得られなかったことから、戦時中の増税による耐乏生活を強いられていた国民は日比谷焼打事件などの暴動を起こし講和を斡旋したアメリカも襲撃してしまい、その結果、戒厳令が発令され内閣が退陣する事態となります。しかし、対外的には賠償金を放棄して講和したことが好意的に受け取られ、また軍艦沈没により漂流したロシア兵に対する丁寧な対応もあり、日本に対する評価が高まることになり、明治維新時に結ばれた不平等条約改正への道筋がつけられることとつながります。それに加え、欧米諸国から恐れられる大国であり、イギリス・フランスに次ぐ海軍力を誇っていたロシアに勝利したことで、一躍列強諸国の仲間入りをし「一等国」と自称するようになりました。日露戦争では触雷にて戦艦2隻を喪失しますが、戦果としてロシアから戦艦6隻を獲得します。他にもロシア軍艦を多数接収し修理改造の後、日本海軍の軍艦として編入しています。
旅順艦隊の戦艦「ポルタワ」は「丹後」となり第一次世界大戦青島攻略戦に参加した後、ロシアに返還されます。戦艦「レトヴィザン」はアメリカで建造された軍艦で日本編入時に「肥前」となりますが、日本海軍唯一のアメリカ製戦艦となり、第一次世界大戦で哨戒活動に従事した後、除籍され実弾標的艦となり沈没します。戦艦「ペレスウェート」と「ポペーダ」は姉妹艦で、それぞれ「相模」「周防」となりますが、「相模」はロシアに返還され「周防」は第一次世界大戦後に除籍されます。バルチック艦隊の戦艦「インペラートル・ニコライ1世」は「壱岐」となりますが、ロシア最古参の戦艦であったため、主に練習艦として使用された後、除籍され標的艦となって沈没します。戦艦「オリョール」は「石見」となりますが、ロシア最新鋭艦でありながら復元性に問題があり、第一次世界大戦には海防艦として参加した後、除籍され爆撃標的となり沈没しています。他に、バルチック艦隊海防戦艦ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦沖島」となりますが、第一次世界大戦後に除籍され練習船となり、同型艦の「アドミラル・セニャーヴィン」も海防艦見島」となった後、シベリア出兵では砕氷艦に改造され、その次には潜水艦母艇となります。駆逐艦ベドーヴイ」も接収され「皐月」となりますが、第一次世界大戦時は除籍され掃海船「皐月丸」として青島攻略戦に参加し、その後は標的船となります。旅順港に沈没した防護巡洋艦ワリャーグ」は引き揚げられて防護巡洋艦宗谷」として日本海軍に編入された後、第一次世界大戦中にロシアに返還されています。また旅順港に着底していた装甲巡洋艦バヤーン」と防護巡洋艦パルラーダ」も引き揚げられ、それぞれ巡洋艦阿蘇」「津軽」として編入されますが、ともに練習艦として使用された後、敷設艦に改造され、最後は標的戦となり沈没します。同型艦であったソーコル級駆逐艦レシーテリヌイ」と「シーリヌイ」は山彦型駆逐艦山彦」「文月」として編入しています。「レシーテリヌイ」は日本が鹵獲した艦艇で最初は旅順港閉塞作戦中に沈没した「」の艦名を引き継いでいたものの「山彦」に改名されて運用され1917年に除籍となり、「シーリヌイ」は旅順で沈座から引き揚げられた艦艇で「文月」として編入され1913年に除籍となります。

ところで、アメリカは日露講和条約を仲介した功績により、セオドア・ルーズベルト大統領が1906年にノーベル平和賞を受賞し、東アジア地域への発言権を得るようになり関与を深めていくこととなります。

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Japanese_Fleet_Proceeding_Toward_The_Baltic_Fleet

    

日本海海戦

ウラジオストクを目指していたバルチック艦隊対馬海峡から日本海を進む航路をとりますが、1905年(明治38年)5月27日未明に仮装巡洋艦信濃」が発見し、続けて巡洋艦和泉」が接触し監視します。その連絡を受けた連合艦隊は、大本営に「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電し、迎撃行動を開始します。午後になり、単縦陣で南西方向に進む連合艦隊は、前方を北東へと向かうバルチック艦隊を認めたため、司令長官東郷平八郎大将は13時55分に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」を意味する「Z旗を旗艦である戦艦「三笠」に掲げます。

当時の軍艦は舷側に副砲を並べており副砲を使った一斉砲撃をするためには、敵艦に対し横を向く必要がありました。そこで、前進する敵艦隊に対し丁字型で迎える戦法が考えられていましたが、それは敵艦隊の前進を阻むこととなりすぐに丁字を維持できなってしまいます。そこで今回の海戦では、まずは敵前逐次回頭をして敵に圧迫を与えて隊列を混乱させたうえで、連合艦隊側の高速性を活かして同航砲撃戦に持ち込むという作戦を採っています。

14時08分に先頭艦である「三笠」が回頭を終える頃、バルチック艦隊から「三笠」に対する砲撃が開始されますが、14時13分には連合艦隊第一戦隊は回頭を完了し砲撃を始めます。第二戦隊も14時15分から回頭し発砲を始め、バルチック艦隊先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スワロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」をはじめとする各艦に対し徹甲榴弾による一斉砲撃を行ない、多数の命中弾により火災を発生させます。砲撃戦は30分程続き、火災により「クニャージ・スワロフ」と「オスリャービャ」と戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」が戦列から離脱するなど、バルチック艦隊は攻撃力は著しく低下します。15時7分には「オスリャービャ」が沈没します。
そこで戦艦「ボロジノ」が残存艦を率い、それに「インペラートル・アレクサンドル3世」も合流する形となったため、こちらに日本海軍は攻撃を集中することとし、それにより「インペラートル・アレクサンドル3世」と「ボロジノ」は次々と撃沈され、戦艦「ナヴァリン」「シソイ・ヴェリキー」に海防戦艦アドミラル・ウシャーコフ」と装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフ」は主力とはぐれる形となります。「クニャージ・スワロフ」は戦闘能力を失い漂流状態になっていたところを駆逐艦ブイヌイ」に発見され、司令官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将などを移乗させます。ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将は頭部に重傷を負っていたため、指揮はニコライ・ネボガトフ少将に移管されています。その後、「クニャージ・スワロフ」は連合艦隊第11艇隊の魚雷により沈没させられています。
日没となり砲撃戦はいったん終了し日本海軍の戦艦と巡洋艦は退避しますが、駆逐艦水雷艇バルチック艦隊の残存艦艇を攻撃します。夜間の水雷攻撃で、散開していたロシア艦艇のうち「ナヴァリン」は沈没させられてしまい、「シソイ・ヴェリキー」と「アドミラル・ナヒモフ」は戦闘不能状態となって自沈処分となり、また装甲巡洋艦ヴラジーミル・モノマフ」は大破してしまいます。これによりバルチック艦隊は司令官ニコライ・ネボガトフ少将が座乗する第3戦艦隊旗艦であった戦艦「インペラートル・ニコライ1世」に第1戦艦隊の戦艦「オリョール」と第3戦艦隊に所属する海防戦艦ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」、海防戦艦アドミラル・セニャーヴィン」に第2巡洋艦隊の防護巡洋艦イズムルト」の4隻のみとなってしまいます。翌5月28日朝には、また日本海軍に捕捉され再び攻撃を受けることとなり、そこで司令官ニコライ・ネボガトフ少将の指示により「インペラートル・ニコライ1世」は白旗を掲揚し降伏をします。これにより日本海海戦は終了となります。
しかし、「イズムルト」は逃走を図りウラジオストクへ向かいますが、ロシア沿岸で座礁してしまい爆破されて放棄されます。ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将を乗せた「ブイヌイ」は機関故障が発生しますが、装甲巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ」と駆逐艦ベドヴイ」「グローズヌイ」と合流でき、「ベドウイ」に移乗して「グローズヌイ」とともにウラジオストクへ向かうこととなります。しかし、駆逐艦」「陽炎」に発見され攻撃を受けてしまったため、「ベドウイ」は降伏することとなり、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将は捕獲されます。ただし、「グローズヌイ」は追撃を振り切ってウラジオストクに到達しています。「ドミトリー・ドンスコイ」は「ブイヌイ」を撃沈処分した後、鬱陵島付近で日本海軍の巡洋艦駆逐艦の攻撃を受けながらも兵員を退艦させ自沈作業を行なってから放棄されて沈没します。「アドミラル・ウシャーコフ」は停船し洋上修理の後、単艦での北上中に装甲巡洋艦磐手」「八雲」と交戦しますが、抵抗をあきらめて自爆沈没します。夜襲を受け航行不能となっていた「ヴラジーミル・モノマフ」は仮装巡洋艦佐渡」の砲撃を受け沈没し、「ヴラジーミル・モノマフ」と行動を共にしていた駆逐艦ロームキー」も駆逐艦不知火」と水雷艇の攻撃により沈没します。バルチック艦隊本隊と離れてしまった防護巡洋艦オレーク」「アヴローラ」「ジェムチュク」と駆逐艦ボードルイ」「ブレスチャーシチー」は共に行動し南方へと逃亡していましたが、途中で「ブレスチャーシチー」が前日の戦闘による被弾で沈没してしたため「ボードルイ」が救助をすることとなり遅れます。「オレーク」「アヴローラ」「ジェムチュク」はそのままマニラに入港し抑留され、「ボードルイ」は燃料欠乏で漂流していたところをイギリス船に曳航されて上海で抑留されます。

バルチック艦隊は、戦艦「クニャージ・スワロフ」「オスリャービャ」「インペラートル・アレクサンドル3世」「ボロジノ」「シソイ・ヴェリキー」「ナヴァリン海防戦艦アドミラル・ウシャーコフ装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフ」「ドミトリー・ドンスコイ」「ヴラジーミル・モノマフ」など21隻が沈没し、戦艦「インペラートル・ニコライ1世」「オリョール海防戦艦ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」「アドミラル・セニャーヴィン」など6隻が日本に拿捕され、他国に逃げた6隻を除くと、目的地であるウラジオストク港に辿り着くことができたのはわずか3隻(巡洋艦アルマース」と駆逐艦グローズヌイ」「ブラヴィ」)のみでした。日本海軍は夜襲時に3隻の水雷艇を失っていますが、1隻は駆逐艦」との衝突による沈んだもので、バルチック艦隊の砲撃により沈没したものは2隻だけであり、艦隊決戦としては日本側の圧勝でした。しかし、この艦隊同士の砲撃戦での劇的な戦勝経験は、以降の日本海軍の大鑑巨砲主義による決戦思想へとつながるものとなってしまいます。

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Japanese_cruiser_Izumo_in_Shanghai

    

日露戦争開始時の艦艇

    

富士(ふじ)

清国の「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として計画された日本海軍最初の本格的な戦艦が「富士」で、大型艦である戦艦には多大な予算が必要となり帝国議会からの承認が得られず白紙となるところが、明治天皇の勅令によりイギリスに発注している。排水量は12533tであり、日本海軍初の戦艦といえる「桑」の3717tに比べ3倍強であり、「鎮遠」の排水量7220tに比べても1.7倍の大きさである。当時の最新鋭艦はイギリス海軍が建造中である「ロイヤル・サブリン」級であるが、それを改良した設計とし、主砲は最新型のアームストロング社製30.5cm40口径連装砲2基に副砲として15.2cm40口径単装速射砲10基というもので、装甲厚は457mmと「鎮遠」の355mmよりも厚いものにもかかわらず、最大速力は18.3ktとなっており、当時の軍艦としては世界最強といえるものであった。1897年(明治30年)9月に竣工すると、天皇勅令により購入したことから御召艦となり、日露戦争では連合艦隊勝利に貢献し、一等海防艦に類別変更されてからは練習艦となって太平洋戦争中も訓練に使用されて終戦まで残存したという艦歴の長い軍艦であった。

    

八島(やしま)

富士型戦艦の2番艦が「八島」であり、この艦も明治天皇の勅令によりイギリスに発注された。「八島」とは日本列島のことを指す美称である。「富士」と同型艦であるが、建造会社が異なるため(「富士」はテームズ社、「八島」はアームストロング社)、排水量が12320tと少なく全長全幅にも差異がある。1897年(明治30年)11月に日本に回航され、こちらも御召艦となった後、日露戦争に参戦するが、旅順港閉塞作戦中の1904年5月15日にロシアが敷設した機雷に接触してしまい、約9時間後に転覆し沈没する。

    

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Battleship_Shikishima

敷島(しきしま)

敷島」は日清戦争後にロシアに対抗するためにイギリスに発注した敷島型戦艦の1番艦で、富士型戦艦に準じた艦形であるが、内部構造は最新の造船技術が取り入れられ、より強力となった当時世界最大の新鋭戦艦である。「敷島」とは、崇神天皇磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)が置かれた磯城(しき)に由来して付けられた日本のことを指す古い国名である。敷島型戦艦の防御甲鈑にはハーヴェイ・ニッケル鋼が使われており、装甲厚としては229mmと薄いものの防御力はより強靭なものである。排水量は14850tとなり、主砲は富士型戦艦と同じ30.5cm40口径連装砲2基であるが副砲は15.2cm40口径単装速射砲14基となり、速力は18ktとなった。1900年(明治33年)1月に竣工され、日露戦争には主力艦として参戦し、一等海防艦となった後、練習特務艦となり「富士」と同様に太平洋戦争中も訓練に使用され終戦まで残存していた。

    

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Japanese_battleship_Asahi

朝日(あさひ)

島型戦艦の2番艦が「朝日」であるが、建造会社の違いにより2本煙突となり「敷島」の3本煙突とは外観が異なる。排水量も15200tとなり全長全幅にも差異があるが、主砲副砲と速力は同等である。「朝日」という艦名は、本居宣長の和歌『敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花』からといわれている。1900年(明治33年)7月に竣工し、日露戦争では主力艦として参加した後、一等海防艦となり練習特務艦を経て、潜水艦救難設備を設置されて潜水艦救難船となり、1937年には工作艦へと改造されて太平洋戦争中は損傷修理に活躍するが、1942年5月にベトナムカムラン湾沖でアメリカの潜水艦サーモン」の魚雷攻撃を受け沈没する。

    

初瀬(はつせ)

島型戦艦の3番艦が「初瀬」で、「敷島」と同じ3本煙突であるが、排水量15000tとなり全長全幅にも差異がある。ただし、主砲副砲と速力は同じである。艦名は、古くから和歌によく詠まれている奈良県内を流れる河川名である。1901年(明治34年)1月に竣工し、日露戦争では第一戦隊の旗艦として1904年の旅順港閉塞作戦に従事している時、5月15日にロシア海軍の機雷に接触してしまい、2回目の触雷で後部火薬庫の大爆発を引き起こし沈没してしまう。

    

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Japanese_battleship_Mikasa

三笠(みかさ)

三笠」は敷島型戦艦の4番艦で、最後に起工されたことから防御甲鈑は最新のクルップ鋼が使われ他の3隻に比べ2~3割ほど防御力が強化されている。また、ボイラー配置により「朝日」と同じ2本煙突であり、排水量は15140tで全長全幅にも差異があるが、主砲副砲と速力は同等になっている。艦名は、こちらも和歌によく詠まれる奈良県三笠山若草山)にちなみ命名されている。1902年(明治35年)3月に日本海軍に引き渡され、連合艦隊旗艦として日露戦争に加わり活躍し勝利に貢献するが、1905年佐世保港内で繋留中に後部弾薬庫の爆発事故により沈没着底する。すぐに浮揚修理され復旧し、第一次世界大戦では日本海などの警備活動に従事したが、1921年に一等海防艦となってすぐのシベリア出兵の際、濃霧の中でウラジオストク港外付近を航行している時に座礁し損傷したため、応急修理をした上で舞鶴に帰投している。ワシントン軍縮会議で廃艦と決まるが、保存運動が起きたため、1925年に記念艦として横須賀に保存されることとなった。

    

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Japanese_cruiser_Yakumo_on_completion

八雲(やくも)

鎮遠」「定遠」を建造したドイツのフルカン社に建造を依頼した装甲巡洋艦が「八雲」で、大型艦としてドイツに発注した唯一の軍艦である。須佐之男命(スサノヲノミコト)が詠んだ最初の和歌『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』から決められた艦名といわれている。六六艦隊を構成する装甲巡洋艦の第1号であるが、先に完成したのは浅間型装甲巡洋艦であった。排水量9695tで、主砲は20.3cm45口径連装砲2基で副砲は15cm40口径単装速射砲12基を備え、速力は20.5ktである。艦首水面下には未だ衝角(ラム)が付いている。1900年(明治33年)6月に日本に回航され、日露戦争では開戦時から連合艦隊に所属し、樺太占領作戦にも従事している。第一次世界大戦青島攻略戦等に参加した後、練習艦隊に組み込まれ、太平洋戦争時には主砲を高角砲に換装し対空砲台となるが、損傷することなく終戦を迎え、復員艦としても活動した。日露戦争参加艦艇で復員輸送を行なったのは「八雲」だけである。

    

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Japanese_cruiser_Azuma_at_Portsmouth

吾妻(あずま)

六六艦隊のうちフランスに発注した装甲巡洋艦が「吾妻」で、戦艦よりも長い船体を持つ。三国干渉のロシア・ドイツ・フランスのうち、ドイツ・フランスとは対立を避けることを狙いとし、ドイツには「八雲」、フランスには「吾妻」の建造を依頼した。艦名は、福島県の吾妻山による。スペックは「八雲」と同等で、排水量9326tであるが、砲装は20.3cm45口径連装砲2基と15cm40口径単装速射砲12基と同じであり、速力は20ktで、衝角(ラム)も付く。1900年(明治33年)7月に日本に回航されると、日露戦争では「八雲」と共に行動し樺太占領作戦にも従事するが、第一次世界大戦ではインド洋に出撃している。その後、練習艦隊に組み込まれるが「八雲」とは別活動をし、1944年に除籍され翌年解体される。

    

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Iwate_at_Vancouver_1933

出雲(いずも)磐手(いわて)

六六艦隊を構成する装甲巡洋艦の第3号が「出雲」で、第4号が「磐手」であるが、浅間型装甲巡洋艦が先に完成しているので、六六艦隊最後の巡洋艦となる。この2艦はイギリスに発注されている。排水量9773tで、20.3cm45口径連装砲2基に15cm40口径単装速射砲14基と「八雲」「吾妻」とほぼ同じで、衝角(ラム)も付くが、装甲は「三笠」と同じ軽くて強いクルップ鋼が使われており、速力は20.8ktである。「出雲」は1900年(明治33年)9月に就役して第二艦隊の旗艦となり、「磐手」は翌年3月に就役して第二艦隊の殿艦となり、ともに開戦時から日露戦争に参加し、蔚山沖海戦で戦果を上げる。「出雲」は、第一次世界大戦では遣米支隊(装甲巡洋艦浅間」、戦艦肥前」)の旗艦としてアメリカ西海岸を防衛任務を行なったり、帰還し御召艦を務めたりするが、その後は練習艦となり、最後は太平洋戦争末期の1945年7月に呉軍港で米艦載機の攻撃を受け転覆する。「磐手」は第一次世界大戦では東南アジアやインド洋に出撃し、その後は練習艦となり、最後は「出雲」同様、1945年7月に呉軍港で米艦載機の攻撃を受けて被弾し浸水着底する。

    

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Japanese_cruiser_Asama_on_completion

浅間(あさま)常盤(ときわ)

ロシア艦隊の増強を受けて急遽、イギリスのアームストロング社で製造中であった輸出用装甲巡洋艦を2隻購入して「浅間」「常盤」とした。そのため、六六艦隊計画の第1号巡洋艦である「八雲」よりも早く完成することとなるが、これで巡洋艦6隻体制が完成することとなる。排水量9700tで、20.3cm45口径連装砲2基と15cm40口径単装速射砲14基に、衝角(ラム)が付くなど、他の装甲巡洋艦と同等であるが、装甲は輸出用巡洋艦ということもあり薄く、そのため速度は21.5ktとなっていた。「浅間」「常盤」は共に1899年(明治32年)には完成しており、北清事変に派遣された後、日露戦争では「出雲」「磐手」とともに第二艦隊を構成し活躍する。「出雲」は、第一次世界大戦では遣米支隊に参加しメキシコ沖で座礁するも浮揚し修理することができたが、1935年の大阪湾から呉軍港へ移動中の広島湾での座礁では損傷が大きく、砲門を撤去し練習特務艦へと改修され、そのまま終戦を迎える。「常盤」は、第一次世界大戦に参加後、練習艦となるが、敷設艦津軽」の老朽化により代艦として敷設艦に改造される。大分県佐伯湾での機雷敷設訓練中の機雷爆発事故により「常盤」は損傷してしまい、修理後しばらくは予備艦となっていたが、敷設艦に復帰し太平洋戦争を通して活動し終戦を迎えた。

    

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NisshinPortSaid

春日(かすが)日進(にっしん)

日露戦争開戦直前にイタリアから購入した同型艦が「春日」と「日進」であり、開戦6日後の1904年(明治37年)2月16日に横須賀港に到着する。艦名は、ともに日本海軍創設期の存在艦の二代目である。チリと対立していたアルゼンチンがイタリアに建造を依頼していたところ、チリと和解したため不要となった軍艦で、イタリア海軍独特の前後対象デザインであり、排水量も他の装甲巡洋艦に比べ2000tほど少ない7700tと小型であるが、十分な兵装を備え衝角(ラム)付きであり、速力も20ktである。「春日」の主な兵装は25.4cm40口径単装砲1基と20.3cm45口径連装速射砲1基と15cm40口径単装速射砲14基で、「日進」は20.3cm45口径連装速射砲2基と15cm40口径単装速射砲14基である。「春日」は、旅順港閉塞作戦行動中に防護巡洋艦吉野」に衝突し沈没させてしまう。同じ日に戦艦初瀬」「八島」も触雷により沈没しており、そのため「春日」と「日進」は当初は戦艦6隻で構成されていた第一艦隊に配属され、第二艦隊の装甲巡洋艦6隻と六六艦隊を再構築する。日本海海戦では、少尉候補生として山本五十六が「日進」に乗艦していたが、砲身爆発があり左手の人差指と中指を欠損し左大腿部に重傷を負っている。「春日」は、樺太占領作戦にも従事し、第一次世界大戦ではインド洋での哨戒任務に就いた後は練習艦として運用され、太平洋戦争末期の1945年7月にあった横須賀空襲で大破着底し終戦となる。「日進」も、樺太占領作戦に従事し、第一次世界大戦時は地中海で船団護衛任務をし、その後は横須賀に繋留され新兵教育施設として利用される。

    

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Japanese_cruiser_Takasago_at_Portsmouth

高砂(たかさご)

高速と速射により日清戦争で活躍した「吉野」の姉妹艦となる防護巡洋艦が「高砂」で、日清戦争後の第一期拡張計画で発注されたため、機関や兵装が改良されている。「吉野」を建造したアームストロング社エルジック造船所で既に起工され建造中であった「吉野」と同等の防護巡洋艦日本海軍が購入したものであり、装甲厚を増し主砲を15.2cm砲4門から20.3cm砲2門に強化しており、兵装は20.3cm40口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲10門になり、排水量4155tで速力22.5ktとなった。1898年(明治31年)5月に就役し、北清事変に出動後、日露戦争では第三戦隊に所属して旅順要塞攻略作戦黄海海戦に参加するが、旅順港閉塞作戦従事中の1904年12月13日に旅順港外で機雷に触れ転覆沈没する。

    

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Japanese_cruiser_Suma_in_1897

須磨(すま)明石(あかし)

国産初の防護巡洋艦秋津洲」を小型改良化した須磨型防護巡洋艦の1番艦が「須磨」で、2番艦が「明石」である。排水量を500t程減らしたため、主砲は半減されたが速力は向上している。「須磨」は、排水量2657tで15.2cm40口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲6門を備え、速力は20ktである。「明石」は2年遅れて竣工しており、排水量2755tで15.2cm40口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲6門と同じ兵装であるが、速力は19.5ktとなる。同型艦でありながら異なる所属で活動する。「須磨」は1896年(明治29年)12月に就役し、日露戦争は「和泉」「秋津洲」「千代田」と第六戦隊に属して戦い、第一次世界大戦ではフィリピン方面の警戒活動後、第一特務艦隊の旗艦となりインド洋方面で行動し、1923年に除籍される。「明石」は、1899年(明治32年)3月に就役し、日露戦争は「浪速」「高千穂」「新高」と第四戦隊に属して戦い、第一次世界大戦では青島攻略戦の後、第二特務艦隊の旗艦として地中海に派遣され船団護衛に活躍するが、1928年に除籍され急降下爆撃の実艦標的となり海没する。

    

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Kasagi_1898_in_UK

笠置(かさぎ)千歳(ちとせ)

日清戦争後の第一期拡張計画で建造されることになった笠置型防護巡洋艦の1番艦が「笠置」で、2番艦が「千歳」である。移民や貿易で摩擦が生じていた日米関係を緩和する措置としてアメリカに発注されたが、設計は「高砂」を改良したもので排水量が大きくなり兵装が若干強化されている。「笠置」は、1898年(明治31年)10月にフィラデルフィアで竣工し、排水量4862tで20.3cm45口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲10門を有し、速力は22.5ktである。「千歳」は、 1899年(明治32年)3月にサンフランシスコで竣工され、排水量4760tで兵装は「笠置」と同じであるが、速力は22.25ktとなる。「笠置」は、1900年の北清事変から出動し、日露戦争にも参加し、第一次世界大戦では青島攻略戦の後、1916年7月に津軽海峡座礁し船体が破壊したため除籍となり売却される。「千歳」は、1899年に東宮(のち大正天皇)が沼津御用邸から横須賀に移る際、御召艦八島」とともに供奉艦として同航し、北清事変出動後は、東宮の北九州地方巡啓における御召艦となる。日露戦争には日本海海戦まで参加し、第一次世界大戦では青島攻略戦等に参加した後、1928年に除籍となり土佐沖で実艦標的となり撃沈処分される。

    

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Japanese_cruiser_Niitaka_in_1918

新高(にいたか)対馬(つしま)

日清戦争後の第二期拡張計画で須磨型防護巡洋艦の後継として建造された新高型防護巡洋艦の1番艦が「新高」で、2番艦が「対馬」である。須磨型防護巡洋艦も国産であったが、軍艦国産化の定着が求められ、それまでは横須賀海軍工廠のみで建造されていたものを「対馬」の建造は呉海軍工廠が担当することとし、建造技術の強化向上を図り、これ以降の巡洋艦は全て国産化される。両艦ともに、排水量3366tで速力は20ktであり、主砲として15.2cm40口径単装速射砲6門を有しているが、他の軍艦には装備されている魚雷発射装置は小型艦であることや誘爆リスクの排除を目的に廃止している。「新高」は、日露戦争開始直前の 1904年(明治37年)1月27日に竣工し、仁川沖海戦から参加し、日本海海戦では主に「音羽」とともに行動し活躍をする。「対馬」は、日露戦争開始4日後の 1904年(明治37年)2月14日に竣工し、直ちに日露戦争に投入されコルサコフ海戦で戦果を上げるなど奮闘する。第一次世界大戦では、両艦は「須磨」「矢矧」とともに第一特務艦隊としてインド洋方面で行動し、1921年に二等海防艦へと類別変更される。「新高」は、1922年8月に漁船保護のためオホーツク海を警備中に台風による暴風を受け座礁転覆する。「対馬」は、1939年に除籍され横須賀海兵団練習船となった後、三浦半島沖で雷撃訓練の標的処分とされる。

    

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Japanese_cruiser_Otowa

音羽(おとわ)

新高」「対馬」とともに建造が決定した防護巡洋艦が「音羽」で、予算の都合で新高型防護巡洋艦よりも小型となる。排水量は一割減の3000tとなり、兵装も15.2cm40口径単装速射砲2門に12cm40口径単装速射砲6門と須磨型防護巡洋艦と同じであるが、雷装は無く、機関が強化されたことから速度は21ktとなる。1904年(明治37年)9月に竣工するとすぐに日露戦争に参戦し、日本海海戦では高速艦主体の第三戦隊に属して活躍し、第一次世界大戦では第一水雷船体の旗艦として青島攻略戦に参加後、1917年7月25日に志摩半島大王崎で座礁し船体が切断され沈没する。

    

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Kasumi_Torpedo_Boat_LOC_ggbain_16980u

(あかつき)

当初、第13号駆逐艦と呼ばれていた日本海軍の最初期の駆逐艦1880年代に水雷艇が魚雷で大型艦を攻撃するようになると、それに対抗し水雷艇を駆逐(破壊)することを目的とした艦艇が建造されるが、その水雷艇駆逐艇が駆逐艦として発展する。水雷艇を凌駕する速度と、魚雷の有効射程外からの砲撃力を有し、水雷艇よりも大型で航洋性を持つ艦艇であり、さらには魚雷発射管まで備えるようになる。そのため、航洋性を持たず近海でしか運用できない水雷艇に替り、魚雷攻撃が可能な汎用性の高い小型艦艇として駆逐艦は進化する。海軍力強化を図る日本海軍は日清戦争後の第一期拡張計画でイギリスに駆逐艦12隻を発注する。ヤーロー社製の雷型駆逐艦6隻(「(いかずち)「(いなづま)」「(あけぼの)」「(さざなみ)」「(おぼろ)」「(にじ)」)とソ-ニクロフト社製の排水量322tの東雲型駆逐艦6隻(「東雲(しののめ)」「叢雲(むらくも)」「夕霧(ゆうぎり)」「不知火(しらぬい)」「陽炎(かげろう)」「薄雲(うすぐも)」)で、雷型は排水量305tで8cm単装砲2門と5.7cm単装砲4門に45cm魚雷発射管2門を備え速力は31kt、東雲型は排水量322tで8cm単装砲1門と5.7cm単装砲5門に45cm魚雷発射管2門を備え速力は30ktであった。これに続く第二期拡張計画で建造された駆逐艦が、ヤーロー社製の暁型駆逐艦2隻(「」「(かすみ)」)とソ-ニクロフト社製の白雲型駆逐艦2隻(「白雲(しらくも)」「朝潮(あさしお)」)である。暁型は排水量363tとなり兵装は東雲型と同じで速力は31kt、白雲型は排水量322tで8cm単装砲2門に5.7cm単装砲5門と45cm魚雷発射管2門を備え速力は31ktとなる。イギリスの建造を依頼した駆逐艦は16隻までで、次の春雨型駆逐艦(「春雨(はるさめ)」「村雨(むらさめ)」「速鳥(はやとり)」「朝霧(あさぎり)」「有明(ありあけ)」「吹雪(ふぶき)」「(あられ)」)からは国内で建造するが、新規設計ではなく艦の前半部はヤーロー社で後半部はソーニクロフト社という両社製の長所を採用したハイブリッドとし、兵装は白雲型と同等である。ボイラーの国産化では性能を発揮できず、排水量は375tで速力は29ktとなった。「」は、1902年(明治35年)1月に日本に回航された後、日露戦争の旅順港閉塞作戦中、1904年5月17日に触雷し沈没してしまうが、ロシア側に目撃されていなかったため、捕獲した駆逐艦レシーテリヌイ」をロシアを欺く目的でそのまま利用する際の日本側艦名として「」を使用した。この艦は、後に「山彦」と改称される。

 

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