軍艦~warship~

主に日本海軍の艦艇について

日本海軍 世界大戦

  

日露戦争勝利によりロシアからの戦利艦を加え、また戦争喪失分を補強するための建艦も進め、日本海軍はイギリス・フランスに次ぐ世界3位の位置づけを得ます。
日露戦争開戦時の日本海軍は6隻の戦艦(「富士」「八島」「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」)を保有していましたが、対するロシアの戦艦は12隻もあり、しかもロシア国内では継続して戦艦を建造中でした。そこでイギリスに、主砲だけでなく中間砲という主砲に準ずる巨砲を持つ最新鋭の戦艦2隻「香取」「鹿島」を発注しますが、竣工し日本へ回航された時には既に日露戦争は終了していました。ただ、触雷により「八島」「初瀬」を失い「三笠」も弾薬庫の爆発で沈没着底しており、運用可能な戦艦が3隻しかない状態であったため、その当時の連合艦隊を支える役割を担います。また、ロシアは戦艦の建造力があり戦争中も戦力の補充を他国に頼らずできていたため、日本も海外に依頼するばかりではなく国内調達できる必要性を感じ、主力艦を国内で建造することとし、それにより建造された最初の純国産戦艦が「薩摩」と「安芸」です。日本が初めて設計をした戦艦でありながら「香取」「鹿島」を上回る砲装を備えた世界最大の戦艦となるはずでしたが、先にイギリスが「ドレッドノート」という革新的な戦艦を完成させてしまったため、「薩摩」と「安芸」は建造中から旧式艦として扱われることになってしまいます。

  

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HMS_Dreadnought_1906_H63596

ドレッドノート」は、当時の戦艦の概念を一変させる画期的なもので、これと同じ性能を持つ戦艦はド級戦艦と呼ばれ、従来の旧式戦艦は前ド級戦艦とされます。ただし、「香取」「鹿島」「薩摩」「安芸」は主砲と準主砲を併せ持つ巨砲混載艦でド級戦艦に準ずる攻撃力を有するため、前ド級戦艦ではなく準ド級戦艦と呼ばれます。後にはド級戦艦を上回る戦艦も建造されるようになりますが、それは超ド級戦艦と称されるようになります。「ドレッドノート」では、それまでの戦艦が砲装として前後に連装砲2基4門の主砲を用意し舷側には副砲や中間砲を組合せる形であったのを、副砲と中間砲を廃し主砲に切替え艦載砲を全て主砲に統一し連装砲5基10門へと砲門数を増やしています。かつての海戦では、まだ火砲の射程距離が短かかったため、射撃時は各砲の砲手が個別に敵艦との距離を測り照準し発砲する「独立撃ち方」という手法でしたが、射程距離が伸びるにつれ照準精度が悪化するようになります。それを補うため、艦内の高い位置に砲撃指揮所を設け、そこで測距器という照準器を用意し射撃をするように改善を図ります。そうなると各砲個別の照準ではなく自艦から敵艦に対する照準となり、砲撃は個別ではなく砲撃指揮所の射手が全ての火砲を発射させる「一斉撃ち方」という方法が効果的といえますが、火砲の種類がバラバラだと各々に照準を合わせ発砲することになってしまい効率が悪くなるため、艦載砲を統一することによって有効性の高い砲撃を実現させることとします。イギリスでは、多数の同一砲で同時に発砲し着弾状況を確認しながら照準を修正するという砲撃法である「斉射」の検証を行なったところ有効性を確認できたことから、「ドレッドノート」には「斉射」が可能となる兵装を施しています。また、レシプロ機関から蒸気タービン機関へと機関の改良が行なわれ、従来の戦艦より3ktほど速度向上し21ktの高速艦となっている点も「ドレッドノート」の特徴の一つです。これにより従来の戦艦に比べ、倍数以上の主砲による精度の高い「斉射」が可能となり、また高速に移動できることから自艦にとって最も有利な砲戦距離を保つことと戦闘終了後には速やかに戦線離脱し敵艦からの攻撃を避けることを実現しています。そして敵艦側は、砲撃力も弱く、しかも低速であるため、不利な状況になった場合、逃げることもできず殲滅させられてしまうことになります。ちなみに兵装としては、主砲以外に対水雷艇用として7.6cm速射砲が装備されていましたが、駆逐艦に対しては威力不足であったことからその後に建造される戦艦には副砲並みの装備が追加されるようになりました。また、遠距離砲撃戦が想定されていることから、体当たりによる敵艦沈没を狙う衝角(ラム艦首)を廃止していますが、第一次世界大戦時に「ドレッドノート」はドイツ潜水艦を体当たりで沈めており、これが戦艦による潜水艦撃沈の唯一の事例になりました。
イギリスは「ドレッドノート」と同時期に「インビンシブル」という巡洋戦艦も完成させています。巡洋戦艦とは、日本海軍が高速の装甲巡洋艦で戦功を上げていたことを教訓に戦闘力と高速性を実装した新しい艦種で、ド級戦艦と同じ連装砲を4基8門装備することで従来の戦艦2隻分の火力を有し、速力は20kt程度の装甲巡洋艦に対して25ktと遥かに高速な性能を持つ艦艇を指します。「ドレッドノート」と「インビンシブル」により、今までの軍艦は全てが旧式という烙印を押されてしまうことになりました。

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HMS_Invincible_(1907)_British_Battleship

ド級戦艦の誕生により、各国の海軍力はいったんリセットされる形になります。しかし、イギリスは「ドレッドノート」を開発した技術力と世界一といえる財力を保有していることから相変わらず世界一の海軍国として存在します。第二位の海軍国には、普仏戦争プロイセンフランス戦争)でフランスに勝利し統一ドイツとなったドイツ帝国が位置づきます。ドイツ帝国ヨーロッパ大陸においてはフランスを上回る国力を有するようになり、優秀な建艦技術を以てナッサウ級4隻にヘルゴラント級4隻と立て続けにド級戦艦を建造し海軍力を拡充していきます。また、アメリカは米西戦争(アメリカスペイン戦争)の勝利でフィリピンやグアムをスペインから獲得したことから軍艦整備の必要性に目覚め、「ドレッドノート」と同時期に単一巨砲艦であるサウスカロライナ級戦艦2隻を建造し、続けてド級戦艦となるデラウェア級2隻とフロリダ級2隻を建造しており、急速に海軍国として成長していきます。
日本海軍もド級戦艦保有する必要に迫られ「河内」と「摂津」を建造しますが、建造途中に前後の砲は強化した方がよいと判断され50口径30.5cm連装砲2基4門となり舷側は45口径30.5cm連装砲4基8門のままという変則的な形となり、ド級戦艦としては不十分なものとなってしまいます。巡洋戦艦としては、「筑波」と「生駒」が国内建造されます。この2艦は薩摩型戦艦よりも早い時点で建造が決まっており、当時は装甲巡洋艦という位置づけでしたが、戦艦の艦載砲と同じ主砲を装備したため、後に巡洋戦艦という艦種ができたときに類別されます。筑波型巡洋戦艦の建造に引き続き、それを拡大強化し中間砲を装備した「鞍馬」と「伊吹」を建造します。しかし、そのすぐ後に「インヴィンシブル」が完成したため、筑波型と鞍馬型は旧式艦と位置づけられてしまいます。本格的なド級戦艦を保有するためには今一度イギリスに発注し建艦技術を習得すべきとの判断から、イギリス海軍最新鋭の超ド級巡洋戦艦ライオン級をベースにした巡洋戦艦を建造してもらうこととします。実際の建造では、ライオン級の34cm主砲を上回る世界最大の36cm連装砲を艦首と艦尾に背負式に2基4門ずつ配置するスタイルとなりました。この「金剛」と名付けられた巡洋戦艦は、日本に回航後、同型艦3隻(「比叡」「榛名」「霧島」)を国内で建造することとなり、金剛型巡洋戦艦4隻は世界最強の巡洋戦艦部隊とみなされ、第一次世界大戦時にはイギリス海軍から貸与要請があったほどですし、その後の改装により高速戦艦へと戦力強化され、太平洋戦争で縦横無尽の活躍をします。また、「金剛」により戦艦建造スキルを入手した日本海軍は超ド級戦艦となる扶桑型戦艦の建造に着手します。

その頃ヨーロッパでは、ドイツの台頭が目覚ましく、イギリスやフランスと敵対するようになり、ドイツを中心とする三国同盟オーストリアハンガリー・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の対立が深まりますが、1914年(大正3年)6月28日のサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発します。当初は、セルビアオーストリアハンガリー間の戦いでしたが、セルビア支援でロシアが参戦すると、三国同盟によりドイツがロシアに宣戦布告し、続けてフランスに対しても宣戦布告します。ドイツが中立国であるベルギーに侵入すると、それを見て今度はイギリスがドイツに宣戦布告をし、日本も日英同盟のもと参戦することになります。イタリアは三国同盟を結んではいたものの、オーストリアハンガリーとの間に領土問題による亀裂が生じていたため、当初は中立を表明し、その後イギリスやフランスと領土返還の密約が成立するとイギリス・フランスの連合国側として参戦し、三国同盟は二国同盟となってしまいます。オスマン帝国はロシアと対立関係にあることと、財政面でドイツの支援を受けていることからドイツ側に加わり、またオスマン帝国の支援により独立を果たしたブルガリア王国もそれに追従し、ドイツとオーストリアハンガリーオスマン帝国ブルガリア王国が加わった中央同盟国を形成します。その当時のアメリカはモンロー主義によりヨーロッパに対し不干渉とする政策をとっていましたが、ドイツが無差別潜水艦作戦を行なったことからドイツと国交断絶し連合国側として参戦します。しかし、連合国側のロシアでロシア革命が起きボリシェヴィキ政府(ソ連)が成立すると、単独でドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して連合国側から離脱してしまいます。これにより、中央同盟国側はロシアとの対立(東部戦線)が無くなり、フランス・イギリスとの戦闘(西部戦線)に注力することが可能となり、戦況を有利に進めることができるようになります。そこで連合国側は、ドイツが再び東部戦線にも兵力を割くよう、単独で講和を行なったボリシェヴィキ政府を打倒する勢力への支援と、ロシアで捕虜となっているものの連合国側に呼応しドイツと戦うことを表明していたチェコスロバキア軍兵士をシベリア経由で救出することを目的とし、ロシア出兵(シベリア出兵)という作戦を起こします。しかし、西部戦線側にアメリカ軍が大量の兵力を投入し連合国軍側の戦力が増強されたことや連合国海軍による海上封鎖で貿易が途絶したことによる中央同盟国側の国力低下などにより、中央同盟国側で内部崩壊が始まります。特に帝政を敷いていた国家は、戦争状況下になると高圧的かつ強制的な弾圧が行なわれるようになり、国民の離反意識が強くなり厭戦気分が蔓延して反戦運動へと転化することで戦争の継続が困難になる傾向が強いのですが、中央同盟国側はドイツもオーストリアハンガリーも帝政国家であり、そして革命を起こしたロシアも帝政国家でした。ドイツ国内にもロシア革命に刺激を受けたドイツ革命が起きドイツ帝国が崩壊してしまい、その結果として連合国側の勝利となり、パリ講和会議が開かれヴェルサイユ条約調印により戦争は終結します。ちなみにロシア革命では社会主義体制へと移行しましたが、ドイツ革命では共和制へと向かいました。また、シベリア出兵第一次世界大戦終結で大義が失われ、共産主義封じ込めを狙ったボリシェヴィキ打倒活動も、その中心であったコルチャーク政権が崩壊したことから連合国側は相次いで撤兵しますが、日本は大陸の利権拡大を図り駐留を続けます。そのような中、尼港(ニコライエフスク港)事件が発生し、日本は北樺太に進駐し占領してしまいます。
第一次世界大戦後、日本は戦勝国としてパリ講和会議に出席し、中国山東省の租借地や赤道以北の南洋諸島など、ドイツがアジア太平洋地域に有していた利権の大半を譲り受け、講和条約により規定された国際連盟常任理事国にもなり、列強の中心を占める「五大国(日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア)」の地位を確実なものとします。また、本土は戦火を免れており、参戦国からの兵器調達需要により大戦景気が起き、国内産業の発展と貿易黒字により国力を飛躍的に増強させることができ、軍事大国化への道を歩むようになります。

League of Nations flag (1939) - Symbol of the League of Nations

  

第一次世界大戦

第一次世界大戦は、1914年(大正3年)から1918年にかけて行なわれた史上初の世界規模の戦争ではありますが、主な戦地はヨーロッパでした。1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるフランツ・フェルディナントがセルビア人青年に暗殺されたサラエボ事件により、オーストリアハンガリーセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まります。ロシアがセルビア支持を表明すると、ドイツがオーストリアハンガリー側として参戦してロシアに宣戦布告し、続けてフランスにも参戦布告します。ドイツはかねてからフランスとは敵対関係にあり、1871年普仏戦争でフランスに勝利した後、さらにフランスを孤立させることを目的に1882年にオーストリア・イタリアと三国同盟を締結しますが、それに対しフランスは1894年にロシアと露仏同盟を締結します。それにより、ドイツはフランスだけでなくロシアともたいりつすることとなり、ロシアと戦争をすることはフランスとも戦争することと同義でした。また、その頃のドイツは海上での覇権をイギリスと争っており、それを踏まえイギリスはフランスとの長年の対立関係を解消して1904年に英仏協商を結び、1907年にはロシアとも英露協商を結びます。そしてイギリスは、自国の安全を確保する必要からヨーロッパ大陸の対岸地域に位置するベルギーを1839年に独立させ、その中立を保証するという戦略をとっています。そのような状況下、ドイツは中立国であるベルギーを侵犯しフランスを背後から攻撃する作戦を実行したため、イギリスはフランス・ロシア側として参戦します。
日本は、1902年(明治35)1月に日英同盟を結んでいますが、ロシアの中国進出を阻止することを目的に締結されたもので、アジアにおける日英の利益保護と、第三国と戦争状態になった場合の対応(一国と交戦した場合は厳正中立とし他国の参戦を防止し、二ヵ国以上と交戦した場合は参戦義務を負う)を取り決めたもので、これにより日露戦争時はロシアの同盟国であったフランスは傍観することとなりました。日露戦争末期の1905年8月に改定して第二次日英同盟が結ばれますが、ここで適用範囲がインドまで拡大し攻守同盟(一か国であっても他国と交戦した場合は参戦)へとレベルアップします。日露戦争の後、日本はロシアと日露協商を締結し、イギリスもロシア・フランスと三国協商を結ぶようになり、日英にとっての共通敵国はロシアからドイツへと変化するようになります。そして第一次世界大戦を迎えることとなりますが、当初は日英攻守同盟の適用範囲にヨーロッパは含まれないと解釈され、日本は中立の立場をとります。しかし、ヨーロッパでの戦争に注力したいイギリスは、アジアにあるドイツの中国租借地を拠点にするドイツ東洋艦隊による通商破壊の危険を回避するため日本に参戦を要請し、日本はドイツが保有するアジアの権益を奪取したいという欲望を持ち、ドイツに対し宣戦布告することとします。

  {青島攻略戦

日本海軍の最初の戦闘は、イギリス海軍と共同で実施した青島攻略戦です。青島は、ドイツが中国から租借した山東省の膠州湾に建設された要塞で、ドイツ東洋艦隊が配備されていたため、日本イギリス連合軍は海上封鎖する作戦を立て、日本海軍は戦艦「周防」「石見」「丹後」といった日露戦争戦利艦を中心とした第二艦隊を派遣しました。しかし、ドイツ東洋艦隊は太平洋上のドイツ占領地に散在しており、青島が攻撃されていることを知るとドイツ本国へと移動することとし、青島に残されたドイツ艦隊は砲艦4隻と水雷艇1隻程度となりますが、海防艦(元防護巡洋艦)「高千穂」が水雷艇S-90」の雷撃により撃沈させられてしまいます。また、第一次世界大戦から、戦闘に飛行機が活用されるようになり、日本海軍も「若宮丸」と名付けた水上機母艦を投入し、偵察活動等の航空作戦を行なっています。青島は、日本陸軍の砲撃によりドイツの要塞が無力化されたことから、陥落してしまいます。青島攻略後の1915年(大正4年)1月に、日本は中華民国袁世凱政権に対し21ヶ条要求を提示します。青島を含むドイツの利権を日本が継承することや南満州・東蒙古における日本の権益を確保するといった内容でしたが、それ以外に中国の内政に干渉するような要求も含まれていたため、アメリカやイギリスから領土的野心を疑われるようになります。ちなみに日本はドイツと交戦状態にあり未だ戦後の講和内容が不明な状態であるため、中国内のドイツ権益を保全管理する必要性があり、その点はアメリカやイギリスともに理解していました。
ドイツ東洋艦隊のうち、装甲巡洋艦シャルンホルスト」「グナイゼナウ」と防護巡洋艦ニュルンベルク」「ライプツィヒ」「ドレスデン」といった主要艦が東太平洋方面へ向かったことから、日本海軍は戦艦「薩摩巡洋戦艦鞍馬」「筑波」「生駒装甲巡洋艦浅間」「磐手」などによる南遣支隊を派遣し、ドイツ艦隊の追跡と赤道以北のドイツ領の確保をします。また、ドイツ東洋艦隊の防護巡洋艦エムデン」がインド洋で通商破壊行動を行なっていたため、イギリスの要請を受け日本海軍は巡洋戦艦伊吹装甲巡洋艦日進」「常盤」「八雲」などによる特別南遣艦隊をオーストラリア海軍護衛として向かわせ合同で討伐作戦を展開しますが、最終的に「エムデン」を攻撃し降伏させたのはオーストラリアの巡洋艦シドニー」でした。これを以て、アジア太平洋地域の海戦は終わりとなります。

東太平洋から本国まで戻ろうとしたドイツ東洋艦隊は、チリ南部でイギリス海軍と1914年11月にコロネル沖海戦を戦いイギリスの装甲巡洋艦グッドホープ」「モンマス」を沈没させます。その後、大西洋まで巡航したドイツ東洋艦隊は、翌月にフォークランド沖で再びイギリスと海戦を行ないます。イギリスは当時最新鋭の巡洋戦艦インヴィンシブル」と同型艦インフレキシブル」に装甲巡洋艦コーンウォール」「ケント」「カーナヴォン」などを加え、ドイツ東洋艦隊を返り討ちにします。このフォークランド沖海戦では、高速で砲力にも勝る巡洋戦艦によるアウトレンジ戦法でイギリスが一方的な勝利を収め1隻も失うことなくドイツの「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ニュルンベルク」「ライプツィヒ」の4隻を撃沈します。逃げ延びた「ドレスデン」も翌年3月にチリ沖で「ケント」「グラスゴー」などと交戦後に自沈してしまい、ドイツ東洋艦隊は全滅となります。

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  {ドッガー・バンク沖海戦

残されたドイツ艦隊はイギリス海軍により本国の港に押し込められる形となってしまい、状況打破のためにイギリスの港湾都市に対し小艦隊による断続的な砲撃を繰り返します。そのような中、1915年1月に北海のドッガー・バンクでドイツとイギリスの巡洋戦艦同士の砲撃戦が行なわれます。巡洋戦艦5隻を主力とするイギリス艦隊に対し、巡洋戦艦3隻に装甲巡洋艦1隻が主力のドイツ艦隊は劣勢であり退却すると決めたところ、イギリス側は追撃戦を仕掛けドッガー・バンク沖海戦となります。ドイツの巡洋戦艦ザイドリッツ」「モルトケ」「デアフリンガー」は27kt程度の速力がありましたが、装甲巡洋艦ブリュッヒャー」は25kt強でした。一方、イギリス側は巡洋戦艦ライオン」「タイガー」「プリンセス・ロイアル」は約28ktと高速で、同じ巡洋戦艦でありながら「ニュージーランド」「インドミタブル」は26kt弱でした。そこで、「ライオン」「タイガー」「プリンセス・ロイアル」が「ザイドリッツ」「モルトケ」「デアフリンガー」を、「ニュージーランド」「インドミタブル」は「ブリュッヒャー」を攻撃目標とし砲撃戦が行なわれ、ドイツの「ザイドリッツ」「ブリュッヒャー」とイギリスの「ライオン」が被弾し大破します。「ザイドリッツ」は航行が可能でしたが、「ライオン」は左舷側エンジンが停止し脱落してしまい、装甲巡洋艦の「ブリュッヒャー」は「ライオン」を除く巡洋戦艦4隻の集中砲火を浴びる形になり撃沈されてしまいます。その間にドイツの巡洋戦艦3隻は戦線を離脱することとなり、戦闘は終了します。ドイツは巡洋艦1隻を失い巡洋戦艦も被害を受けるという結果から装甲の強度に対する必要性を認識し防御力に劣る巡洋戦艦を中心に装甲の強化を図りますが、イギリスは「ライオン」が同様な弱点を見せていたにも関わらず何の対策も講じませんでした。

  {ユトランド沖海戦

その後も小競り合い程度の戦闘はあるものの睨み合い状態が続く中、ドイツは警戒中のイギリス艦隊をおびき出し個別に撃破する作戦を立てますが、イギリス側は無線傍受によりすぐさま呼応したため、両艦隊が総力で戦うユトランド沖海戦ジュットランド沖海戦とも)が1916年5月に発生することになります。この海戦では、イギリスが戦艦28隻、巡洋戦艦9隻、装甲巡洋艦8隻を含む150隻余り、ドイツは戦艦16隻、巡洋戦艦5隻に旧式戦艦6隻など約100隻という、史上最大の大艦隊による砲撃戦が行なわれました。最初は偵察部隊であった巡洋戦艦同士の砲撃戦で始まり、イギリス側の主力艦は巡洋戦艦インディファティガブル」と「クイーン・メリー」が轟沈し「ライオン」が大破しますが、ドイツ側で大破となった主力艦は巡洋戦艦ザイドリッツ」のみでした。引き続いて艦隊本隊を含む全艦による決戦が行なわれますが、ここでもイギリス側の損害が大きく、装甲巡洋艦の「ディフェンス」が轟沈させられ「ウォーリア」も沈没し、戦艦「ウォースパイト」は操艦不能となり、巡洋戦艦インヴィンシブル」も轟沈してしまいます。それに対しドイツ側は、この時点では巡洋戦艦の「リュッツオウ」が大破し「フォン・デア・タン」「デアフリンガー」が中破という状況でした。夜になったため、当時は敵味方の判別が難しくなることから戦闘規模が縮小されることとなりますが、戦果的にはドイツが優勢とはいえ戦力的には未だイギリスの方が有利であることから、ドイツ艦隊は戦線離脱を画し巡洋戦艦4隻を囮とし本隊を退避させようとします。ドイツの巡洋戦艦部隊はイギリスの砲撃を浴び艦上は残骸のようになりますが、強靭な防御力により航行は可能でした。この援護によりドイツ本隊は敵前回頭でき逃走を始めますが、イギリス艦隊の猛追を受け両軍艦の隊形が乱れる中で戦艦同士の砲撃戦が始まります。しかし、夜闇が訪れたことからイギリス艦隊は味方艦への砲撃を避けるために砲撃を止めてしまい、これによりドイツ艦隊は安寧を得ることができました。しかし、局地的には夜戦も行なわれ、ドイツの旧式戦艦ボンメルン」が雷撃により沈没し、イギリスの装甲巡洋艦ブラック・プリンス」は砲撃により沈没しています。ちなみにドイツの巡洋戦艦リュッツオウ」は艦首部分が大きく沈み込み舵が海面から浮き出てスクリューが空回りする状態から航行不能と判断され自沈処分となります。そして翌朝、ドイツ艦隊はイギリス艦隊と大きく離れることに成功し、もはや戦闘は続行できなくなってしまい、ユトランド沖海戦は終わります。この海戦で、ドイツは巡洋戦艦1隻と旧式戦艦1隻を合わせ11隻を失いますが、イギリスは巡洋戦艦3隻と装甲巡洋艦3隻を含む計14隻もの艦艇を失っています。戦果からするとドイツの勝利といえそうですが、海戦終了後のイギリスには戦闘可能な(旧式ではない)戦艦と巡洋戦艦が24隻残っていましたがドイツは10隻だけしかない状態となり、その後もイギリスが制海権を握りドイツは艦隊を自由に出港させることができないままであり、戦略面からはイギリスの勝利(敗北はしていない)ということになります。この海戦を迎えるにあたり、ドイツはドッガー・バンク沖海戦の教訓から防御面の強化を図っていましたが、イギリスは「速度は装甲」という敵艦より高速で、かつ優れた射撃により射程外から圧倒するという巡洋戦艦設計時の考え方のままであり、しかもドイツ兵の方が訓練の成果により射撃指揮が優れ命中率が高いという実態でした。艦艇を設計する上で、巡洋戦艦の防御上の脆さが露呈し、また旧式戦艦等の低速艦は戦闘に間に合わず役に立たなかったことも問題点として認識され、その解決策として列強各国は戦艦の攻撃力と装甲性を持ちながら巡洋戦艦の高速性を有する高速戦艦の建造に取り組むこととなります。

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British_Battlecruisers_that_Fought_at_Jutland_-_19-N-4166

ユトランド沖海戦後、ドイツの海上戦力は港湾に釘付けとなったことから、イギリスの船舶輸送を妨害することを目的に潜水艦Uボートを使った通商破壊作戦を実施します。このことは、アメリカの対ドイツ宣戦布告を招き、日本海軍が地中海へ軍艦を遠征させることにつながります。イギリス・フランス・ロシアは日本をヨーロッパ戦線に参加させるため、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本に引き継ぐという秘密条約を結び、これを受けて日本海軍は、インド洋に第一特務艦隊(防護巡洋艦須磨」「矢矧」「対馬」「新高」など)、地中海には第二特務艦隊(防護巡洋艦明石駆逐艦複数)を派遣し、輸送船団の護衛を担当しますが、第二特務艦隊の駆逐艦」がオーストリアハンガリーの潜水艦「U2」の雷撃で大破してしまいます。また他に、日本には造船余力があったことからフランスからの駆逐艦建造依頼を受け樺型駆逐艦と同等のアラブ級駆逐艦12隻を納入するといった支援も行ないます。日本海軍は、ドイツ側潜水艦の攻撃を受けた連合国船舶から多数救出したり、地中海を渡海する連合国軍の輸送作戦での護衛任務を成功させ連合国側の西部戦線を下支えしたりと、地中海において目覚ましい活躍をしており、イギリス商船の救助についてはイギリス国王ジョージ5世から叙勲されるなど、連合国諸国から高い評価を得ることになります。このことは、戦後のパリ講和会議で日本の高い貢献度を印象づけるものになりました。

  

第一次世界大戦時の艦艇

  

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Japanese_Battleship_Kashima_1906

香取(かとり)鹿島(かしま)

日露戦争に備えてロシアの戦艦急増に対抗するためにイギリスに発注した戦艦が「香取」と「鹿島」であるが、竣工前に日露戦争終結している。イギリスの「キング・エドワード7世」をモデルに設計され、30.5cm45口径連装砲2基の主砲だけでなく準主砲といえる25.4cm45口径単装砲4基を有するという世界最強クラスの戦艦として両艦とも1906年(明治39年)5月に完成する。しかし、その約半年後の1906年12月にイギリスの「ドレッドノート」が竣工したことから、いきなり旧式艦との烙印を押されることになる。「香取」はイギリスのヴィッカース社で建造され、排水量15950tで速度は18.5ktの戦艦として竣工し、明治天皇皇太子(後の大正天皇)の大韓帝国巡啓時の御召艦となる。その後も、大正天皇大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の御召艦として行動し、日本国内だけでなくヨーロッパへも訪問する。第一次世界大戦で出動することがあったものの、ワシントン軍縮条約で廃棄と決まり1924年に解体されるまで、そのほとんどを御召艦として過ごした。「鹿島」はイギリスのアームストロング社で建造され、排水量16400tで速度は18.5ktの戦艦として竣工する。その後は「香取」と同じように御召艦、あるいは「香取」が御召艦の時は随艦として行動するが、ワシントン軍縮条約で廃棄が決まり1924年に解体される。

  

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Japanese_battleship_Satsuma

薩摩(さつま)安芸(あき)

主力艦の建造を他国に頼らずに初めて国内生産した戦艦が「薩摩」と「安芸」で、日本が初めて設計をする戦艦であるため香取型戦艦の機能強化版として設計された。主砲は香取型と同じものの準主砲は25.4cm45口径連装砲6基と3倍に強化されており世界最強の戦艦となるはずであったが、イギリスの「ドレッドノート」が先に完成してしまったため、建造中から旧式艦と呼ばれることとなる。「薩摩」は横須賀海軍工廠で建造され1910年(明治43年)3月に排水量19372t速力18.25ktで竣工し、大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の御召艦随艦として活動後、第一次世界大戦では第二南遣支隊に組み入れられ太平洋上のドイツ領南洋諸島の攻略作戦などで活躍する。その後、天皇巡啓時の供奉艦を務めるが、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決まり1924年9月に館山沖で射撃標的艦として処分される。「安芸」は呉海軍工廠で建造されるが「薩摩」とは異なりタービン機関を採用したため煙突が2本から3本に増え排水量20100tで速力20ktとなり1911年(明治44年)3月に竣工する。1912年の横浜沖合での観艦式で随艦をするなどした後、第一次世界大戦に参加するが外洋遠征などは行なわれなかった。その後は、大正天皇皇太子(後の昭和天皇)巡啓時の供奉艦先導艦を務めるが、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決まり1924年9月に野島崎沖で射撃標的艦として処分される。

  

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Settsu

河内(かわち)摂津(せっつ)

イギリスの「ドレッドノート」竣工により、それまでの戦艦が全て旧式とされてしまったため、急遽建造することとなった日本最初のド級戦艦が「河内」と「摂津」である。主砲配置はドイツ海軍の戦艦ナッサウ級やヘルゴラント級と同じく舷側主砲を背中合わせにする亀甲型(六角形状)としたため、敵がいない舷側の主砲(全体の三分の一)が使用されないという欠点があった。また主砲は全門30.5cmであったが、艦首と艦尾は新設計の50口径で舷側は従来の45口径と砲身長が異なっており、このままでは統一射撃指揮ができずド級戦艦としての条件を満たさないことから、ド級戦艦ともいわれる。そこで、50口径の砲弾の装薬量を変え、45口径と同等の初速とすることで統一した射撃指揮を実現させており、実運用上はド級戦艦として使用することができていた。ちなみには50口径の砲弾は高初速で撃ち出すと砲身がしなり命中率が低下するという欠陥があったため、装薬量を変えるという手当は妥当なものと考えられた。また30.5cm50口径砲は、金剛型戦艦での採用が検討されていたものであり、事前に欠点が発見されたことは利点といえ、金剛型戦艦は35.6cm45口径砲を採用することとなる。「河内」は横須賀海軍工廠で建造され1912年(明治45年)3月に排水量20800t速力20ktで竣工する。第一次世界大戦に参戦し東シナ海黄海の警備に従事した後、徳山湾に停泊中の1918年(大正7年)7月に突然1番砲塔舷側から発火し大爆発を起こし船体が右に傾斜して転覆着底してしまう。「摂津」は呉海軍工廠で建造され1912年(明治45年)7月に排水量21443t速力20ktで竣工し、第一次世界大戦に参戦する。「河内」爆沈後、「摂津」は大正天皇御召艦となるが、ワシントン軍縮会議で戦艦「陸奥」を保有する代わりに「摂津」は退役させられて標的艦となる。しかし、1923年にドイツが軍艦を無線操縦する技術を開発したことを聞き、日本海軍もその研究を始めることとし、1928年に無人操縦装置の試作機を完成させ、ワシントン軍縮条約失効後の1937年には本格的な無人操縦装置を作成することができ「摂津」に搭載し実験することとなる。操縦船は駆逐艦矢風」とし、主力艦の砲撃訓練や航空機の雷撃・爆撃訓練を無人状態で実施するほか、「摂津」艦内に頑丈な防禦区画に設けて航空攻撃からの回避訓練も行ない操艦技術の向上にも役立てることとした。この訓練により、捷一号作戦で第四航空戦隊司令官松田千秋少将は指揮下の戦艦「日向」「伊勢」を無事生還させている。太平洋戦争を通して訓練任務に就き、1945年7月のアメリカ軍機呉軍港空襲で大破着底し終戦を迎える。

  

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Tsukuba_(1907)_1

筑波(つくば)生駒(いこま)

日露戦争開始3ヶ月で沈没した戦艦「八島」「初瀬」の損失を補う必要から臨時軍事費により急遽建造が決まり、戦時下であったため外国に建造依頼するのではなく主力艦も国産化をするとの判断がなされ、まずは装甲巡洋艦が呉海軍工廠で急造されたが日露戦争には間に合わず、「筑波」が1907年(明治40年)1月、「生駒」が翌年3月に竣工する。両艦とも日本で建造する軍艦としては始めて排水量一万屯超となる13750tの大艦であったが、主砲には戦艦と同じ30.5cm45口径連装砲を搭載し、副砲も従来の装甲巡洋艦よりも強力な15.2cm45口径速射砲にするという意欲的な設計をしており、主力艦として世界で初めて衝角(ラム艦首)を廃止し、速度は巡洋艦に匹敵する20.5ktで装甲は戦艦並みという、高速戦艦と呼んでも差支えないほど当時としては画期的な軍艦として建造されていた。しかし、既にイギリスの「ドレッドノート」は完成しており、「生駒」竣工と同時に世界初の巡洋戦艦インヴィンシブル」も竣工してしまい、すぐに旧式艦と位置づけられることとなるが、1912年に新たな艦種として巡洋戦艦が新設されると「筑波」「生駒」はともに巡洋戦艦に類別される。「筑波」は防護巡洋艦千歳」とともにアメリカ殖民300年祭記念観艦式(ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪する。第一次世界大戦では西太平洋の哨戒任務や南洋諸島占領作戦などに従事していたが、横須賀港に寄港中の1917年6月に前部火薬庫の爆発により爆沈する。「生駒」はアルゼンチン独立100周年記念式典に参加した後、南米から欧州まで訪問する。第一次世界大戦では南洋方面で行動し、大戦後は主に大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の御召艦を務めるも、ワシントン海軍軍縮条約で廃棄が決まり1924年に解体される。

  

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Japanese_cruiser_Kurama_2

鞍馬(くらま)伊吹(いぶき)

筑波型を改良した排水量14636tの装甲巡洋艦として横須賀海軍工廠で「鞍馬」が建造され、呉海軍工廠で「伊吹」が建造される。主砲は筑波型と同じ30.5cm45口径連装砲2基4門であるが、副砲は20.3cm45口径連装砲4基8門と強化されている。機関については性能比較をするため、「鞍馬」は従来と同じレシプロエンジンとし速力21ktであったが、「伊吹」にはカーチス式直結タービンを搭載し速力22ktとなる。タービン機関の採用としてはイギリスに次ぐもので、ドイツ、フランス、アメリカよりも先行していた。「伊吹」は日本におけるタービン機関の試験艦と位置づけられ建造が先行されたため、 1911年(明治44年)2月竣工の「鞍馬」よりも早く1909年11月に竣工している。「鞍馬」はジョージ5世の戴冠記念観艦式に参加するため防護巡洋艦利根」と遣英艦隊を編成しイギリスを訪問し、「伊吹」はシャム国王ラーマ6世の戴冠記念観艦式に参加するためタイを訪問する。巡洋戦艦の類別が1912年に新設されると「鞍馬」と「伊吹」は巡洋戦艦となる。第一次世界大戦では、「鞍馬」は第一南遣支隊に属し太平洋の南洋諸島に出向き、「伊吹」は防護巡洋艦筑摩」とともに特別南遣艦隊としてドイツ巡洋艦エムデン」討伐に従事する。シベリア出兵では「鞍馬」「伊吹」ともに支援にあたる。その後、「伊吹」は御召艦任務を任されることもあったが、ワシントン海軍軍縮条約では両艦ともに廃棄と決まり1924年に解体される。

  

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Japanese_cruiser_Tone_at_Portsmouth_1911

利根(とね)

日露戦争での喪失艦された防護巡洋艦吉野」の代替艦として建造された防護巡洋艦が「利根」で、佐世保海軍工廠で建造された初の大型艦である。「吉野」を参考に設計されたが、「吉野」が装甲巡洋艦春日」の衝角(ラム)で沈没したことを受け、砲撃射程の延伸により衝角は敵艦攻撃よりも味方艦の脅威になると判断され廃止し、クリッパー型艦種を採用した。兵装も「吉野」と同等であるが、重量削減のために15.2cm砲2門は12cm砲に変更され、15.2cm40口径単装速射砲2と12cm40口径単装速射砲10門となる。直前に建造した防護巡洋艦の「新高」「対馬」「音羽」では魚雷兵装を実装しなかったが、日露戦争で雷撃が効果的であったことと排水量4113tと艦形が大型化したことから、復活させている。また、レシプロ機関を搭載した最後の巡洋艦となったが、速度は「吉野」と同等の23ktとなる。1910年(明治43年)5月に竣工し、装甲巡洋艦鞍馬」とともにジョージ5世戴冠記念観艦式に参加するため遣英艦隊を編成してイギリスを訪問し、その後ヨーロッパ各国を歴訪する。第一次世界大戦では、第二水雷戦隊旗艦として青島攻略戦に参加し、続けて南シナ海やインド洋での作戦に従事した後、1931年(昭和6年)に除籍となり、1933年4月に奄美大島近海で射撃爆撃標的として撃沈処分される。

  

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Japanese_cruiser_Hirado_1918

筑摩(ちくま)矢矧(やはぎ)平戸(ひらど)

戦艦や巡洋戦艦の高速化に応じるため、タービン機関により速度アップをした防護巡洋艦が筑摩型の3隻であり、タービン機関の比較検証も兼ね異なる方式を採用している。「筑摩」「平戸」はブラウン・カーチス式で「矢矧」はパーソンズ式とし、公試(最終性能試験)で「矢矧」のみ27kt超(他2隻は26kt強)を記録する。排水量は5000tで、兵装は15.2cm45口径単装速射砲8門を備え、装甲としては防護巡洋艦であるにもかかわらず舷側の一部に防御装甲を施しており軽巡洋艦への過渡期と位置づけられるもので、日本海軍最後の防護巡洋艦となった。「筑摩」は1912年(明治45年)5月に佐世保海軍工廠で竣工し、第一次世界大戦巡洋戦艦伊吹」とともにドイツ巡洋艦エムデン」討伐に参加した後、1931年(昭和6年)に除籍されて標的艦となり撃沈処分される。「矢矧」は1912年(明治45年)7月に三菱重工長崎造船所で竣工し、第一次世界大戦南洋諸島占領作戦に参加した際、オーストラリアのフリーマントルに寄港時、オーストラリアに日本敵視感情があったため沿岸砲から一発砲撃されるというトラブルが発生する。その後、1940年(昭和15年)に除籍されて練習船となり終戦を迎える。「平戸」は1912年(明治45年)7月に川崎重工神戸造船所で竣工して、第一次世界大戦では南洋諸島占領作戦等に参加し、第一次上海事変でも支援活動を行なった後、1940年(昭和15年)に除籍され練習船となり終戦を迎える。

  

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Wakamiya

若宮(わかみや)

日本海軍初の水上機母艦が「若宮」で、日露戦争時に鹵獲したイギリスの貨物船「レシントン」を水上偵察機4機が搭載できるように改造したものである。水上機母艦とは、水上機を搭載してカタパルトあるいは水上に降ろして発進させ、帰還し着水したた水上機はクレーンで吊上げ格納する軍艦で、第一次世界大戦時は水上機母艦を「航空母艦」と呼称していた。世界初の水上機母艦はフランスの「フードル」で、元は水雷艇母艦であったが水雷艇の大型化により格納が難しくなったことから代わりに水上機用の母艦として改造したもので、水上機8機分の収容設備を持ち1912年から運用される。日本海軍は、1913年(大正2年)に当時はまだ貨物船であった「若宮丸」に水上偵察機3機を搭載して軍事演習に参加させた後、翌年水上機母艦へと改造し前後甲板上に1機ずつと格納所に分解して2機の水上機の搭載を可能とし、第一次世界大戦が開始すると青島攻略戦にて航空作戦に従事させる。ただし、カタパルト実用化前であったため、海上の飛行基地として燃料補給等の整備保守を主な作業であったが、有効性は十分に立証した。同時期、イギリスでは建造途中の貨物船を設計変更して1914年12月に水上機母艦アーク・ロイヤル」を竣工させ、オスマン帝国巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム」に爆撃を試みており、1915年8月にはフェリーを改装した「ベン・マイ・クリー」の搭載機が航空魚雷でトルコ商船の雷撃を成功させている。日本海軍は、「若宮丸」を1915年に二等海防艦若宮」として軍艦に編入し、大戦後の1920年には仮設の滑走台を設け陸上機の発艦実験を行なっている。1920年の類別変更で航空母艦が新設された際には「若宮」を日本海軍最初の航空母艦としているが、実体としては水上機母艦である。1925年まで艦隊へ配属された後、佐世保鎮守府警備艦となり1931年に除籍される。

 

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