日本海軍 軍縮時代
第一次世界大戦によりヨーロッパ大陸は全域が戦場となり、どの国家も疲弊し国力が低下することとなりましたが、アメリカと日本は戦勝国側の有力国のうちで本土が全く被害を受けなかったこともあり、しかも参戦国からの軍需品の注文を受けるなど国力を増強することができました。それにより国際的な地位が向上することとなり、アメリカはイギリスと肩を並べるほどになり、日本はそれに続く第三の位置づけとみなされるようになります。
日本はヴェルサイユ条約によりドイツがアジアに持っていた利権を受け継ぎ、ドイツの租借地であった中国山東省の権益のほか、アメリカが植民地化しているフィリピンを囲むような形となる太平洋上赤道以北の島々のドイツ統治権も継承します。しかし、アメリカにとっては自国のアジア進出を妨害するものとして警戒すべきことと映り、日本に対する圧力外交を始めます。それに呼応するかのように、日本はアメリカを仮想敵国として軍備増強を推進していく姿勢をとります。
日本海軍は、1920年(大正9年)に海軍増強政策として八八艦隊案を成立させます。これは日露戦争時の六六艦隊を発展させたもので、実戦及び演習の中で一指揮官が統率し連係して攻撃が可能となる艦船数は八隻までと結論付けられ、一艦隊八隻で敵艦隊を挟撃するには最低二艦隊必要になるとのことから八八艦隊という戦法が考案されることになり、1907年(明治40年)の帝国国防方針における戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻という計画によって、装甲巡洋艦は巡洋戦艦へと呼称変更しますが金剛型巡洋戦艦4隻が建造され、続けて扶桑型戦艦2隻(「扶桑」「山城」)と改扶桑型となる伊勢型戦艦2隻(「伊勢」「日向」)が建造されます。しかし、アメリカが戦艦を急造しイギリスに匹敵する海軍力を有するようになり、イギリスも戦艦の主砲を17インチ(381mm)と巨砲化を進めるといった現実をふまえ、主砲を41cm砲に統一した八八艦隊案を新たに計画します。八八艦隊計画では「艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を主力とする」ということになり、当時最新鋭となる戦艦と巡洋戦艦を毎年建造し8年間で一通り建造し終わると、1年目に建造した戦艦と巡洋戦艦の代替を新たに新造し、それを繰り返していくという壮大なものでした。併せて航空母艦や巡洋艦も戦艦群と同等な優秀艦を建造することが盛り込まれており、しかも海軍は八八艦隊案が成立するとさらなる拡充策として八八八艦隊構想も描いており、その費用は莫大なものとなり国家財政が破綻してしまうほどでした。しかし、国家の存亡に関わるものと考えらていたことから、段階的な推進策がとられ、まずは大正5・6年度の八四艦隊案から始まり、大正7年度の八六艦隊案を経て、大正9年度に八八艦隊案の予算を議会通過させています。八八艦隊の建艦計画としては、まず長門型戦艦1隻(「長門」)を建造し、続けて長門型戦艦1隻(「陸奥」)と加賀型戦艦2隻(「加賀」「土佐」)に天城型巡洋戦艦2隻(「天城」「赤城」)の建造に移り、次に天城型巡洋戦艦2隻(「愛宕」「高雄」)で戦艦4隻と巡洋戦艦4隻を揃えた後、紀伊型戦艦4隻(「紀伊」「尾張」「(仮)駿河」「(仮)近江」)と巡洋戦艦4隻(名称未定)を建造するというものです。
八八艦隊計画の1番艦である「長門」は、1917年(大正6年)8月に呉海軍工廠にて起工され、1920年11月に竣工しています。世界初となる16.1インチ(41cm)砲が搭載された軍艦であり、また建艦中にユトランド沖海戦が起きたため、その戦訓から水平防御の強化と26.5ktという高速性能も実現しており、「長門」は一躍注目を浴びる存在となります。1年遅れで横須賀海軍工廠にて2番艦である「陸奥」も起工されており、世界最大・最強・最高速の戦艦を日本は2隻も保有することになり、そのことが軍縮会議開催により日本の海軍力をセーブしようとする一因にもなります。
ただし、戦艦の建造は日本海軍だけではなく列強各国も同様で、アメリカはダニエルズ・プランという三年計画で戦艦10隻と巡洋戦艦6隻を建造するというものであり、日本海軍の八八艦隊とほぼ同等の建造計画を立案しました。それに対応するようにイギリスも戦艦4隻・巡洋戦艦4隻の建造を計画しますが、第一次世界大戦により疲弊した国力で建艦競争を繰広げることは難しく軍縮への道筋を検討することとなります。軍備拡張による経済負担はイギリスだけの問題ではなく日本においても同様であり、八八艦隊の建造では国家予算の1/3が必要となり、その他に軍艦を保守管理するための費用もかかり、八八八艦隊構想になると財政面からはまるで実現性が感じられないものといえました。アメリカは日本よりも経済的には裕福であったとはいえ国家予算を圧迫するものであり、イギリスからの働きかけもあったことから、アメリカのウオレン・G・ハーディング大統領の提案で、海軍国であるフランス・イタリアを含めた戦勝5ヶ国の軍縮会議をワシントンで1921年(大正10年)11月から開催することとします。
{ワシントン軍縮会議}
ワシントン軍縮会議では、主力艦といえる戦艦・航空母艦・巡洋艦の保有数と排水量の制限が決められ、建造中の艦船は全て廃艦とした上で、アメリカ・イギリス:日本:フランス・イタリアの割合を現保有量を基に5:3:1.75とするものでした。この会議に先立ち日本は建造中の戦艦「陸奥」を突貫工事で一部の装備を未搭載のまま竣工済としたものの、米英は未完成として廃艦対象扱いにしようとします。また日本は、対米戦のシミュレーションで7割の海軍力が必要と試算していたことから保有割合の見直し要求をします。それらを踏まえて交渉が行なわれた結果、排水量見直しは受け入れられなかったものの、「陸奥」については所有することを認めてもらえることとなり、ただしその代わりとして、アメリカは廃棄予定としていたコロラド級2隻の建造を続行することとし、イギリスは戦艦2隻を新造してもよいこととなりました。それにより、アメリカは「コロラド」「メリーランド」「ウェストバージニア」の3隻、イギリスは「ネルソン」「ロドニー」の2隻の超ド級戦艦を保有することとなり、「長門」「陸奥」を加えた7艦をビッグ7と呼ぶようになります。ところで、このワシントン会議では太平洋地域に権益を持つアメリカ・イギリス・フランス・日本がお互いに各国領土を保証する四カ国条約が締結され、それに伴い日英同盟が破棄されています。また、この4ヶ国に加えイタリア・オランダ・ベルギー・ポルトガルと中華民国の計9ヶ国が中国の領土保全と門戸開放について取り決めた九か国条約を結び、日本は山東還付条約を締結させられ中国山東省の権益を手放すこととなります。
ワシントン軍縮条約では、条約締結後10年間は戦艦の新造を凍結した上で保有数と排水量の上限が決められたため、日本海軍は超ド級クラスの金剛型巡洋戦艦4隻(「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」)と扶桑型戦艦2隻(「扶桑」「山城」)伊勢型戦艦2隻(「伊勢」「日向」)に最新鋭艦である長門型戦艦2隻(「長門」「陸奥」)の計10隻を保有し、前ド級クラスの旧式戦艦は廃棄あるいは特務艦とすることになります。ただ、前ド級戦艦は実戦には耐えられないとみなされていたため廃棄もやむを得ないものとはいえ、建造からの艦歴は短いものとなりました。また、建造中の戦艦も航空母艦への改装を認められた「天城」と「赤城」の2隻を除き廃棄が命じられ、「加賀」と「土佐」は実弾標的艦として廃棄されることになります。しかし、「天城」が関東大震災により大破し修復不可能となり廃棄処分されることになったため、代替で「加賀」が航空母艦に改装されます。
航空母艦は、当初は水上機用の母艦として存在し偵察哨戒作戦で活用されていましたが、航空機の有効性が認識されるにつれ、陸上機の搭載が求められるようになります。1910年にアメリカで、民間パイロットであるユージン・バートン・イーリーが、軽巡洋艦「バーミンガム」の前甲板の特設飛行甲板から複葉機の離陸を成功させ、翌年には停泊中の装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の艦尾に設けた特設飛行甲板に着艦フックを使って着艦することに成功させますが、軍用機による実用性の検証としては不十分なものでした。1917年になるとイギリスが、軽巡洋艦「フューリアス」の前部砲塔を撤去し飛行甲板へと改造して陸上機の運用実験を行ないますが、発艦はできるものの着艦させることはできないという結果になりました。そこで後部砲塔も撤去し飛行甲板を設けて実験を継続しますが、中央部に残された艦橋と煙突が邪魔をし、やはり着艦不可という結果になります。そこで次に、世界初の全通飛行甲板を採用した客船改造航空母艦「アーガス」を1918年9月に建造して離着陸実験を行ないます。航空母艦の短い飛行甲板に着艦させるには着艦制御装置が必要となりますが、「アーガス」の着艦制御装置は不完全なもので安全な運用はできないもののなんとか着艦できるという状態までこぎつけました。その後、フランス海軍やアメリカ海軍が安全な着艦制動装置を作ることに成功し、イギリス海軍もそれにならって1931年に改良を図っています。当時は、イギリスだけでなく日本もフランスも航空母艦は新造ではなく既存艦の改造により調達していましたが、イギリスは1918年1月に最初から航空母艦として設計した「ハーミーズ」を起工します。しかし、「アーガス」やチリ海軍の戦艦「アルミランテ・コクレン」を航空母艦に改造した「イーグル」の運用実績を考慮しながら慎重に建造されたために1924年2月竣工となり、2年近く遅れて起工した日本海軍の「鳳翔」が先に竣工してしまいます。日本海軍は第一次世界大戦時で航空機の有効性を確認しており、列強も航空母艦の建造を推進している状況もふまえ、偵察能力の向上のために本格的な航空母艦の整備を1918年(大正7年)の建艦計画で決定し、新造の航空母艦「鳳翔」を建造することとします。しかし、日本にとっては新設計となる航空母艦の建造は技術的に困難な部分が多々あることから、同盟国であり航空母艦の建造や運用の経験を有するイギリスに支援を求め、軍事技術団を招聘することとし、併せて着艦技術の習得強化も必要であるため、イギリス空軍の退役将校を教官として雇い入れるなど、イギリスの全面的なサポートにより日本の航空母艦建造は進められ、1922年(大正11年)12月に世界に先駆け完成します。竣工時は飛行甲板右舷前部には艦橋が存在しており、また偵察任務で敵艦との交戦をも想定し14cm単装砲が4門装備されており、水上機収容用のデリック(クレーン)も設けられていました。しかし、新しいタイプの艦艇であることから、様々な実験が繰り返され、それに伴う改装が行なわれます。航空機の大型化により飛行甲板に余裕が無くなり艦橋とデリックは撤去されます。また、日本海軍は艦載機用カタパルトを開発できなかったことから、より大きな飛行甲板が必要であり、「鳳翔」も飛行甲板を延長しています。イギリスやアメリカは航空母艦用のカタパルトを開発し運用できていたため、短時間で多くの艦載機を発艦することができ、また船体を小型化することも可能であり、停泊中でも緊急発艦することができましたが、日本海軍は搭載機の離艦時には風上に向かって高速で航行することが求められ、高速性能が必須となり建造や運用時の制約となりました。また、発艦距離を長くとる必要から甲板上の機体数が制限されるという問題も生じることとなります。航空母艦用のカタパルトを実用化できなかったことは、その後の太平洋戦争で、新型の航空機を開発しても発艦距離が不足するような低速艦や小型艦では離陸ができないという実態から、いつまでも旧型機を使い続けなければならないという課題に発展します。
ワシントン軍縮条約では、主力艦である戦艦の新規建造が不可能となったため、各国は戦艦に準ずる存在である重巡洋艦を競って建造するようになり、排水量と搭載砲が条約で定められていたことから条約型巡洋艦と呼ばれることとなります。日本は主砲と魚雷装置による攻撃力強化を推進し、アメリカは砲力は強化するものの魚雷は搭載しない代わり搭載機を増やし航空作戦を重要視しており、イギリスは植民地からの輸送警備を主任務と考えた居住性を重視するといった特徴をみせます。特に日本は、妙高型重巡洋艦(「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」)では戦艦に匹敵するような高性能さを認められ、また、駆逐艦も性能強化により今までの倍近い強武装となった特型駆逐艦と呼ばれる吹雪型駆逐艦(総計24隻)を完成させたことから、他の列強各国に脅威を与え警戒されるようになります。このような建艦技術の発達は、あらためて軍備拡張の激化を招くこととなり、巡洋艦以下の補助艦に対しても制限をする必要があると意識されるようになり、1927年(昭和2年)6月にアメリカのクーリッジ大統領の提唱で、アメリカ・イギリス・日本の代表がジュネーブに集まり軍縮会議が開かれます。日本は協調路線で臨みますが、アメリカの「比率主義」とイギリスの「個艦規制主義」が対立し妥協が得られることなく決裂してしまいます。そこで、イギリスとアメリカが事前に予備交渉で調整を図った後、あらためてイギリスのラムゼイ・マクドナルド首相の提唱により、1930年(昭和5年)1月からロンドンにてフランス・イタリアも参加する形で再び海軍軍縮会議が行なわれることになります。
{ロンドン軍縮会議}
ロンドン軍縮会議は、主に巡洋艦・駆逐艦・潜水艦といった補助艦の保有制限を合意を図るものとして開催されました。しかし、フランスとイタリアは潜水艦の保有量制限などについて反発があり調印しませんでしたが、アメリカとイギリスは日本の海軍力を抑えることを目的としていたため、残った三国で会議は進められ調印が行なわれます。
巡洋艦は、主砲の砲口径により6.1インチ(155mm)超をカテゴリーa(重巡洋艦)と、6.1インチ以下をカテゴリーb(軽巡洋艦)に分けることが決まり、それぞれ合計排水量の制限が設けられ、アメリカ:イギリス:日本の比率は重巡洋艦が10.00:8.10:6.02で軽巡洋艦は10.0:13.4:7.0とされます。これは妙高型重巡洋艦を意識したもので、日本は既に完成済の改妙高型である高雄型重巡洋艦を含めると制限枠いっぱいとなり、続く最上型と利根型は砲口径6.1インチ以下の軽巡洋艦として建造されることとなりました。そのため、艦名は軽巡洋艦に与えられる河川名であり、太平洋戦争準備のために主砲を203mmに換装した後も公式(対外的)には軽巡洋艦としています。駆逐艦については、主砲は5.1インチ以下とし排水量は600tを超え1850t以下のもので、かつ1500t超の艦は合計排水量の16%と細かく規定され、合計排水量の比率はアメリカ:イギリス:日本は10:10:7とされました。これは、日本が保有する特型駆逐艦を制限することを目的としたものでした。潜水艦は、主砲は5.1インチ以下で排水量の上限を2000tとしますが、3艦に限っては主砲6.1インチ以下で2800tを認め、合計排水量は各国とも同じとしました。その当時の日本海軍はまだ潜水艦の建造技術が遅れており、アメリカにとっては既に建造済であった3隻の大型潜水艦の保有を認める特例が付いた有利なものでした。補助艦だけでなく、戦艦についても建造中止措置の5年延長や既存艦の削減も織り込まれました。それにより、イギリス5隻、アメリカ3隻、日本1隻の戦艦が廃艦とされましたが、各国1隻ずつは武装・装甲・機関の一部軽減を条件に練習戦艦としての保有が認められ、これにより日本で対象となった「比叡」は改造されることになりました。
この軍縮条約では、日本の補助艦全体の保有率は対米比「6.975」とされ対英米7割の希望に対し「0.025」抑えられた結果となり海軍軍令部は条約拒否を唱えますが、政府としては条約を批准することとします。しかし、ワシントン軍縮会議に引き続きロンドン軍縮会議でも日本の要望が満たされないにもかかわらず調印されたことに対し、議会で統帥権干犯問題が提起され、このことが後に統帥権を主張する軍部の独走を許すきっかけを作ってしまいます。また、この軍縮条約の制約内で重武装な軍艦を建造したことから、友鶴事件と第四艦隊事件を引き起こすことになります。友鶴事件は、条約の制限外だった基準排水量600t以下の水雷艇「友鶴」に駆逐艦と同等の重武装をしたために復原性が不足することとなり、1934年(昭和9年)3月12日に行なわれた荒天下での夜間演習中に転覆してしまったというものです。この事件を契機に海軍は保有艦艇の復原性改善工事を終えたものの、翌1934年に第四艦隊事件を起してしまいます。昭和10年度海軍大演習のために臨時編成された第四艦隊が艦隊対抗演習を実施することとした9月26日はちょうど台風が接近中でしたが、台風克服も訓練上必要と判断され航行を続けていたところ、荒波により複数の艦艇が衝突してしまい、転覆や沈没は無かったものの参加41隻のうち半数といえる19隻が損傷するという海難事故が発生してしまいます。しかも当時最新鋭であった特型駆逐艦の「初雪」と「夕霧」は艦橋付近から前の艦首部分が切断されてしまいます。戦闘力向上から重武装となるも軍縮条約により規定の排水量を守らなければならないため、軽量化が優先されてしまい船体強度が犠牲になったことが原因として考えられました。そこで、軍縮条約下で建造された全艦艇をチェックし、友鶴事件と併せて船体強度確保のための補強と復原性改良のための武装一部撤去(軽量化)という対策が全艦に対し行なわれることとなりました。
日本海軍の技術力向上としては、酸素魚雷の開発が挙げられます。それまでの魚雷は空気を燃料と混合して燃焼させて動力を得る仕組みですが、燃焼に必要なのは酸素のみです。そこで、純酸素を使うと燃焼効率は向上し、また空気中の80%程を占める酸素以外の気体が不要となり、より多くの炸薬を搭載することができ、高速でかつ長射程を実現できます。不要となる酸素以外の気体を排出する必要がなくなることで魚雷の航跡が消えるという大きなメリットも生まれます。ただ、酸素は反応性が高いことから容易に爆発すると危険性があったため、列強各国は開発途中で断念する中、唯一日本だけが酸素魚雷の開発に成功し太平洋戦争で運用させています。
1934年から軍縮条約改正を目的とした第二次ロンドン軍縮会議開催に向けた予備交渉が始まります。日本は過去二度の軍縮会議で対米七割の要求を拒絶されていることとふまえ、軍縮条約からの脱退も視野に入れ保有割合の撤廃を求め、いっそのこととして戦艦と空母の全廃までも主張します。これに対し、アメリカは自国のアジアでの権益を日本に脅かされることを憂慮し、現行と同等の保有割合を継続することを主張します。イギリスは、欧州で再びドイツが国力を増強させてきたことへの対抗を優先とし、そのために巡洋艦を建造し増強したいという意向があり、アメリカが求めている保有割合を堅持する方針よりも、むしろ日本と不可侵条約を締結することによりアジアでの権益保全を図りたいと考えている状況でした。しかし、イギリスとしてはアメリカと敵対することは避けたいと考えており、そこで日本・アメリカ・イギリスの三国間で相互不可侵条約を結び、軍事力は三国間の協定として調整するという提案をします。イギリスとアメリカは、この軍縮条約体制は、まだ比較的小国である日本にとっては勢力圏がアジア周辺にしか及んでいない現状ではむしろ有利な条件とみなしていたという背景があります。ところが、日本は軍事力増強を第一とする海軍主導で交渉を進めていたため、イギリスの提案は結局のところ日本にとって現状を改善するものではないとされ進展するには至らず、逆にアメリカは日本の軍事力抑制を必須と考えていたことからイギリスに対日共同戦線を働きかけ、日米の対立が平行線のまま解消されることはなく、予備交渉は行き詰ったまま打ち切られます。そして、1934年12月になり日本はワシントン軍縮条約からの脱退を通告し、2年後の1936年末に期限切れとなることが決まります。第二次ロンドン軍縮会議は1935年12月から開催されましたが、翌年1月になり日本は脱退を決め、これにより日本の軍縮時代は終わりを告げ、大和型戦艦の建造を計画するなど、軍備増強への道を走り始めます。ちなみに、第二次ロンドン軍縮会議は、イタリアもエチオピア侵略により脱退することとなり、最終的にはイギリス・アメリカ・フランスの三ヶ国となり、フランスの意向をふまえた質的制限を主体とした条約として締結されます。また、エスカレータ条項という、ワシントン海軍軍縮条約の批准国が第二次ロンドン軍縮条約を調印しなかった場合は、戦艦空母等の保有枠を増大させるといった制限の緩和が規定されており、日本の脱退によって1938年に発動されることとなり、日本だけでなく列強各国も太平洋戦争に向けた軍拡時代に突入します。
【八八艦隊の幻の艦艇】
加賀(かが)土佐(とさ)
八八艦隊計画の戦艦の3番艦が「加賀」で4番艦が「土佐」であり、1番艦「長門」の拡大改良型として1920年(大正10年)に起工された。建艦の計画は1917年度の八四艦隊案に遡るが、設計時は長門型戦艦を発展させたもので41cm45口径の連装主砲が4基8門から5基10門へと増加し、最新式ボイラーの導入で1本煙突となっている。防御面は、設計時からユトランド沖海戦の戦訓が取り入れられ、長門型戦艦よりも強靭なものとなっており、煙突の防御も施されている。両艦とも1921年に進水しているが、ワシントン軍縮条約により建設中戦艦の廃棄が決まり、ともに対象となり横須賀まで曳航される。ところが、1923年9月1日に発生した関東大震災で、条約により巡洋戦艦から航空母艦へ改装されるはずであった巡洋戦艦「天城」が修理不能の損傷を受けてしまい、そこで横須賀に繋留されていた「加賀」が代替として航空母艦へと改造されることとなる。航空母艦となった「加賀」は日本海軍の主力空母として活躍するものの、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没する。一方「土佐」は標的艦となり、1924年6月から数ヶ月に渡る実験に従事した後、1925年2月に高知県沖で自沈処分される。実験では、徹甲弾が落下角度により水中弾として直進貫通し炸裂することがわかり、九一式徹甲弾の開発や効果測定が行なわれている。また、砲弾や魚雷などの実弾標的とされたことから防御性能の検証といった各種データは、その後に建造された軍艦の設計に活かされることとなる。
天城(あまぎ)赤城(あかぎ)高雄(たかお)愛宕(あたご)
八八艦隊計画の巡洋戦艦の最初の4隻が「天城」「赤城」「高雄」「愛宕」である。加賀型戦艦と同じ攻撃力である41cm45口径連装主砲5基10門を有しながら、速力は3.5ktアップさせて35ktとなる高速艦として設計され、装甲も加賀型戦艦よりは劣るものの長門型戦艦よりは強固となる計画であった。ところが、ワシントン軍縮条約の締結により全て廃棄されることとなるが、2隻だけは改装により航空母艦への転用が認められていたため、1920年(大正9年)12月に起工済であった「天城」と「赤城」の2隻を改造対象とし、起工間もない「高雄」と「愛宕」は解体処分されることとなる。しかし、「天城」は1923年9月1日の関東大震災で修復困難な損傷を受けてしまい廃棄せざるを得なくなり、廃棄予定であった戦艦「加賀」が航空母艦へ改造されることとなる。ちなみに「加賀」と「赤城」が航空母艦に改造されることで、条約にて割り当てられた排水量の大半が使われてしまうこととなり、当初計画されていた航空母艦「翔鶴」の建造が中止となった。「赤城」は呉海軍工廠に置かれていたため、予定通りに航空母艦へと改造された後、日本海軍の主力空母として活躍することとなるが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で「加賀」とともに沈没する。
紀伊(きい)尾張(おわり)
八八艦隊計画の9号艦から12号艦となる戦艦として紀伊型戦艦が考案され、そのうちの先行する2隻が「紀伊」と「尾張」である。当初は加賀型戦艦に準じて一部改良した型として追加建造を検討していたが、アメリカが建造中のサウスダコタ級戦艦の主砲が40m50口径12門という攻撃力を持ち防御力でも加賀型戦艦を上回るとの情報を得たことから、それに対抗できることが求められるようになる。41cm砲の50口径化や3連装砲塔、そして46cm砲などの研究や検証が行なわれたが、八八艦隊実現が第一命題であることから、9号艦と10号艦は1921年(大正10年)度には起工する必要があるため、兵装や機関は天城型巡洋戦艦を踏襲するものの装甲を加賀型戦艦よりも強化するという設計に決められた。装甲を強固することにより、赤城型巡洋戦艦に比べ速度は低下することとなるが、それでも29.75ktという高速になると計算されており、実現すれば戦艦と巡洋戦艦の違いが事実上無くなる高速戦艦となり、速度差からアメリカの戦艦を個別に捕捉し撃破することが可能となるものであり、この紀伊型戦艦の構想に脅威を覚えたアメリカがワシントン会議開催を決めたという話がある。起工前にワシントン軍縮条約が締結されたために「紀伊」「尾張」は建造中止となり、11号艦・12号艦も白紙となった。
13号艦
八八艦隊計画の赤城型に続く巡洋戦艦として考えられていたのが13号艦型巡洋戦艦である。しかし、紀伊型戦艦において巡洋戦艦と戦艦の区別が無くなるとされていたため、八八艦隊計画の書類上は巡洋戦艦であるが、最強の高速戦艦という位置づけになるはずであった。ワシントン軍縮条約締結により建艦計画が破棄され情報が現存していない状態にあるため、どのような設計を計画していたかは不明であるが、アメリカが建造を計画していたサウスダコタ級戦艦を上回る攻撃力が要求されていたとすると、主砲は46cm砲とし4基8門装備する計画であったのではないだろうか。この後、軍縮時代が終わりを告げると、日本海軍は大和型戦艦で45口径46cm砲を搭載する。
日本海軍 世界大戦
日露戦争の勝利によりロシアからの戦利艦を加え、また戦争喪失分を補強するための建艦も進め、日本海軍はイギリス・フランスに次ぐ世界3位の位置づけを得ます。
日露戦争開戦時の日本海軍は6隻の戦艦(「富士」「八島」「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」)を保有していましたが、対するロシアの戦艦は12隻もあり、しかもロシア国内では継続して戦艦を建造中でした。そこでイギリスに、主砲だけでなく中間砲という主砲に準ずる巨砲を持つ最新鋭の戦艦2隻「香取」「鹿島」を発注しますが、竣工し日本へ回航された時には既に日露戦争は終了していました。ただ、触雷により「八島」「初瀬」を失い「三笠」も弾薬庫の爆発で沈没着底しており、運用可能な戦艦が3隻しかない状態であったため、その当時の連合艦隊を支える役割を担います。また、ロシアは戦艦の建造力があり戦争中も戦力の補充を他国に頼らずできていたため、日本も海外に依頼するばかりではなく国内調達できる必要性を感じ、主力艦を国内で建造することとし、それにより建造された最初の純国産戦艦が「薩摩」と「安芸」です。日本が初めて設計をした戦艦でありながら「香取」「鹿島」を上回る砲装を備えた世界最大の戦艦となるはずでしたが、先にイギリスが「ドレッドノート」という革新的な戦艦を完成させてしまったため、「薩摩」と「安芸」は建造中から旧式艦として扱われることになってしまいます。
「ドレッドノート」は、当時の戦艦の概念を一変させる画期的なもので、これと同じ性能を持つ戦艦はド級戦艦と呼ばれ、従来の旧式戦艦は前ド級戦艦とされます。ただし、「香取」「鹿島」「薩摩」「安芸」は主砲と準主砲を併せ持つ巨砲混載艦でド級戦艦に準ずる攻撃力を有するため、前ド級戦艦ではなく準ド級戦艦と呼ばれます。後にはド級戦艦を上回る戦艦も建造されるようになりますが、それは超ド級戦艦と称されるようになります。「ドレッドノート」では、それまでの戦艦が砲装として前後に連装砲2基4門の主砲を用意し舷側には副砲や中間砲を組合せる形であったのを、副砲と中間砲を廃し主砲に切替え艦載砲を全て主砲に統一し連装砲5基10門へと砲門数を増やしています。かつての海戦では、まだ火砲の射程距離が短かかったため、射撃時は各砲の砲手が個別に敵艦との距離を測り照準し発砲する「独立撃ち方」という手法でしたが、射程距離が伸びるにつれ照準精度が悪化するようになります。それを補うため、艦内の高い位置に砲撃指揮所を設け、そこで測距器という照準器を用意し射撃をするように改善を図ります。そうなると各砲個別の照準ではなく自艦から敵艦に対する照準となり、砲撃は個別ではなく砲撃指揮所の射手が全ての火砲を発射させる「一斉撃ち方」という方法が効果的といえますが、火砲の種類がバラバラだと各々に照準を合わせ発砲することになってしまい効率が悪くなるため、艦載砲を統一することによって有効性の高い砲撃を実現させることとします。イギリスでは、多数の同一砲で同時に発砲し着弾状況を確認しながら照準を修正するという砲撃法である「斉射」の検証を行なったところ有効性を確認できたことから、「ドレッドノート」には「斉射」が可能となる兵装を施しています。また、レシプロ機関から蒸気タービン機関へと機関の改良が行なわれ、従来の戦艦より3ktほど速度向上し21ktの高速艦となっている点も「ドレッドノート」の特徴の一つです。これにより従来の戦艦に比べ、倍数以上の主砲による精度の高い「斉射」が可能となり、また高速に移動できることから自艦にとって最も有利な砲戦距離を保つことと戦闘終了後には速やかに戦線離脱し敵艦からの攻撃を避けることを実現しています。そして敵艦側は、砲撃力も弱く、しかも低速であるため、不利な状況になった場合、逃げることもできず殲滅させられてしまうことになります。ちなみに兵装としては、主砲以外に対水雷艇用として7.6cm速射砲が装備されていましたが、駆逐艦に対しては威力不足であったことからその後に建造される戦艦には副砲並みの装備が追加されるようになりました。また、遠距離砲撃戦が想定されていることから、体当たりによる敵艦沈没を狙う衝角(ラム艦首)を廃止していますが、第一次世界大戦時に「ドレッドノート」はドイツ潜水艦を体当たりで沈めており、これが戦艦による潜水艦撃沈の唯一の事例になりました。
イギリスは「ドレッドノート」と同時期に「インビンシブル」という巡洋戦艦も完成させています。巡洋戦艦とは、日本海軍が高速の装甲巡洋艦で戦功を上げていたことを教訓に戦闘力と高速性を実装した新しい艦種で、ド級戦艦と同じ連装砲を4基8門装備することで従来の戦艦2隻分の火力を有し、速力は20kt程度の装甲巡洋艦に対して25ktと遥かに高速な性能を持つ艦艇を指します。「ドレッドノート」と「インビンシブル」により、今までの軍艦は全てが旧式という烙印を押されてしまうことになりました。
ド級戦艦の誕生により、各国の海軍力はいったんリセットされる形になります。しかし、イギリスは「ドレッドノート」を開発した技術力と世界一といえる財力を保有していることから相変わらず世界一の海軍国として存在します。第二位の海軍国には、普仏戦争(プロイセンフランス戦争)でフランスに勝利し統一ドイツとなったドイツ帝国が位置づきます。ドイツ帝国はヨーロッパ大陸においてはフランスを上回る国力を有するようになり、優秀な建艦技術を以てナッサウ級4隻にヘルゴラント級4隻と立て続けにド級戦艦を建造し海軍力を拡充していきます。また、アメリカは米西戦争(アメリカスペイン戦争)の勝利でフィリピンやグアムをスペインから獲得したことから軍艦整備の必要性に目覚め、「ドレッドノート」と同時期に単一巨砲艦であるサウスカロライナ級戦艦2隻を建造し、続けてド級戦艦となるデラウェア級2隻とフロリダ級2隻を建造しており、急速に海軍国として成長していきます。
日本海軍もド級戦艦を保有する必要に迫られ「河内」と「摂津」を建造しますが、建造途中に前後の砲は強化した方がよいと判断され50口径30.5cm連装砲2基4門となり舷側は45口径30.5cm連装砲4基8門のままという変則的な形となり、ド級戦艦としては不十分なものとなってしまいます。巡洋戦艦としては、「筑波」と「生駒」が国内建造されます。この2艦は薩摩型戦艦よりも早い時点で建造が決まっており、当時は装甲巡洋艦という位置づけでしたが、戦艦の艦載砲と同じ主砲を装備したため、後に巡洋戦艦という艦種ができたときに類別されます。筑波型巡洋戦艦の建造に引き続き、それを拡大強化し中間砲を装備した「鞍馬」と「伊吹」を建造します。しかし、そのすぐ後に「インヴィンシブル」が完成したため、筑波型と鞍馬型は旧式艦と位置づけられてしまいます。本格的なド級戦艦を保有するためには今一度イギリスに発注し建艦技術を習得すべきとの判断から、イギリス海軍最新鋭の超ド級巡洋戦艦ライオン級をベースにした巡洋戦艦を建造してもらうこととします。実際の建造では、ライオン級の34cm主砲を上回る世界最大の36cm連装砲を艦首と艦尾に背負式に2基4門ずつ配置するスタイルとなりました。この「金剛」と名付けられた巡洋戦艦は、日本に回航後、同型艦3隻(「比叡」「榛名」「霧島」)を国内で建造することとなり、金剛型巡洋戦艦4隻は世界最強の巡洋戦艦部隊とみなされ、第一次世界大戦時にはイギリス海軍から貸与要請があったほどですし、その後の改装により高速戦艦へと戦力強化され、太平洋戦争で縦横無尽の活躍をします。また、「金剛」により戦艦建造スキルを入手した日本海軍は超ド級戦艦となる扶桑型戦艦の建造に着手します。
その頃ヨーロッパでは、ドイツの台頭が目覚ましく、イギリスやフランスと敵対するようになり、ドイツを中心とする三国同盟(オーストリア=ハンガリー・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の対立が深まりますが、1914年(大正3年)6月28日のサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発します。当初は、セルビアとオーストリア=ハンガリー間の戦いでしたが、セルビア支援でロシアが参戦すると、三国同盟によりドイツがロシアに宣戦布告し、続けてフランスに対しても宣戦布告します。ドイツが中立国であるベルギーに侵入すると、それを見て今度はイギリスがドイツに宣戦布告をし、日本も日英同盟のもと参戦することになります。イタリアは三国同盟を結んではいたものの、オーストリア=ハンガリーとの間に領土問題による亀裂が生じていたため、当初は中立を表明し、その後イギリスやフランスと領土返還の密約が成立するとイギリス・フランスの連合国側として参戦し、三国同盟は二国同盟となってしまいます。オスマン帝国はロシアと対立関係にあることと、財政面でドイツの支援を受けていることからドイツ側に加わり、またオスマン帝国の支援により独立を果たしたブルガリア王国もそれに追従し、ドイツとオーストリア=ハンガリーにオスマン帝国とブルガリア王国が加わった中央同盟国を形成します。その当時のアメリカはモンロー主義によりヨーロッパに対し不干渉とする政策をとっていましたが、ドイツが無差別潜水艦作戦を行なったことからドイツと国交断絶し連合国側として参戦します。しかし、連合国側のロシアでロシア革命が起きボリシェヴィキ政府(ソ連)が成立すると、単独でドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して連合国側から離脱してしまいます。これにより、中央同盟国側はロシアとの対立(東部戦線)が無くなり、フランス・イギリスとの戦闘(西部戦線)に注力することが可能となり、戦況を有利に進めることができるようになります。そこで連合国側は、ドイツが再び東部戦線にも兵力を割くよう、単独で講和を行なったボリシェヴィキ政府を打倒する勢力への支援と、ロシアで捕虜となっているものの連合国側に呼応しドイツと戦うことを表明していたチェコスロバキア軍兵士をシベリア経由で救出することを目的とし、ロシア出兵(シベリア出兵)という作戦を起こします。しかし、西部戦線側にアメリカ軍が大量の兵力を投入し連合国軍側の戦力が増強されたことや連合国海軍による海上封鎖で貿易が途絶したことによる中央同盟国側の国力低下などにより、中央同盟国側で内部崩壊が始まります。特に帝政を敷いていた国家は、戦争状況下になると高圧的かつ強制的な弾圧が行なわれるようになり、国民の離反意識が強くなり厭戦気分が蔓延して反戦運動へと転化することで戦争の継続が困難になる傾向が強いのですが、中央同盟国側はドイツもオーストリア=ハンガリーも帝政国家であり、そして革命を起こしたロシアも帝政国家でした。ドイツ国内にもロシア革命に刺激を受けたドイツ革命が起きドイツ帝国が崩壊してしまい、その結果として連合国側の勝利となり、パリ講和会議が開かれヴェルサイユ条約調印により戦争は終結します。ちなみにロシア革命では社会主義体制へと移行しましたが、ドイツ革命では共和制へと向かいました。また、シベリア出兵は第一次世界大戦の終結で大義が失われ、共産主義封じ込めを狙ったボリシェヴィキ打倒活動も、その中心であったコルチャーク政権が崩壊したことから連合国側は相次いで撤兵しますが、日本は大陸の利権拡大を図り駐留を続けます。そのような中、尼港(ニコライエフスク港)事件が発生し、日本は北樺太に進駐し占領してしまいます。
第一次世界大戦後、日本は戦勝国としてパリ講和会議に出席し、中国山東省の租借地や赤道以北の南洋諸島など、ドイツがアジア太平洋地域に有していた利権の大半を譲り受け、講和条約により規定された国際連盟の常任理事国にもなり、列強の中心を占める「五大国(日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア)」の地位を確実なものとします。また、本土は戦火を免れており、参戦国からの兵器調達需要により大戦景気が起き、国内産業の発展と貿易黒字により国力を飛躍的に増強させることができ、軍事大国化への道を歩むようになります。
【第一次世界大戦】
第一次世界大戦は、1914年(大正3年)から1918年にかけて行なわれた史上初の世界規模の戦争ではありますが、主な戦地はヨーロッパでした。1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナントがセルビア人青年に暗殺されたサラエボ事件により、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まります。ロシアがセルビア支持を表明すると、ドイツがオーストリア=ハンガリー側として参戦してロシアに宣戦布告し、続けてフランスにも参戦布告します。ドイツはかねてからフランスとは敵対関係にあり、1871年に普仏戦争でフランスに勝利した後、さらにフランスを孤立させることを目的に1882年にオーストリア・イタリアと三国同盟を締結しますが、それに対しフランスは1894年にロシアと露仏同盟を締結します。それにより、ドイツはフランスだけでなくロシアともたいりつすることとなり、ロシアと戦争をすることはフランスとも戦争することと同義でした。また、その頃のドイツは海上での覇権をイギリスと争っており、それを踏まえイギリスはフランスとの長年の対立関係を解消して1904年に英仏協商を結び、1907年にはロシアとも英露協商を結びます。そしてイギリスは、自国の安全を確保する必要からヨーロッパ大陸の対岸地域に位置するベルギーを1839年に独立させ、その中立を保証するという戦略をとっています。そのような状況下、ドイツは中立国であるベルギーを侵犯しフランスを背後から攻撃する作戦を実行したため、イギリスはフランス・ロシア側として参戦します。
日本は、1902年(明治35)1月に日英同盟を結んでいますが、ロシアの中国進出を阻止することを目的に締結されたもので、アジアにおける日英の利益保護と、第三国と戦争状態になった場合の対応(一国と交戦した場合は厳正中立とし他国の参戦を防止し、二ヵ国以上と交戦した場合は参戦義務を負う)を取り決めたもので、これにより日露戦争時はロシアの同盟国であったフランスは傍観することとなりました。日露戦争末期の1905年8月に改定して第二次日英同盟が結ばれますが、ここで適用範囲がインドまで拡大し攻守同盟(一か国であっても他国と交戦した場合は参戦)へとレベルアップします。日露戦争の後、日本はロシアと日露協商を締結し、イギリスもロシア・フランスと三国協商を結ぶようになり、日英にとっての共通敵国はロシアからドイツへと変化するようになります。そして第一次世界大戦を迎えることとなりますが、当初は日英攻守同盟の適用範囲にヨーロッパは含まれないと解釈され、日本は中立の立場をとります。しかし、ヨーロッパでの戦争に注力したいイギリスは、アジアにあるドイツの中国租借地を拠点にするドイツ東洋艦隊による通商破壊の危険を回避するため日本に参戦を要請し、日本はドイツが保有するアジアの権益を奪取したいという欲望を持ち、ドイツに対し宣戦布告することとします。
日本海軍の最初の戦闘は、イギリス海軍と共同で実施した青島攻略戦です。青島は、ドイツが中国から租借した山東省の膠州湾に建設された要塞で、ドイツ東洋艦隊が配備されていたため、日本イギリス連合軍は海上封鎖する作戦を立て、日本海軍は戦艦「周防」「石見」「丹後」といった日露戦争戦利艦を中心とした第二艦隊を派遣しました。しかし、ドイツ東洋艦隊は太平洋上のドイツ占領地に散在しており、青島が攻撃されていることを知るとドイツ本国へと移動することとし、青島に残されたドイツ艦隊は砲艦4隻と水雷艇1隻程度となりますが、海防艦(元防護巡洋艦)「高千穂」が水雷艇「S-90」の雷撃により撃沈させられてしまいます。また、第一次世界大戦から、戦闘に飛行機が活用されるようになり、日本海軍も「若宮丸」と名付けた水上機母艦を投入し、偵察活動等の航空作戦を行なっています。青島は、日本陸軍の砲撃によりドイツの要塞が無力化されたことから、陥落してしまいます。青島攻略後の1915年(大正4年)1月に、日本は中華民国の袁世凱政権に対し21ヶ条要求を提示します。青島を含むドイツの利権を日本が継承することや南満州・東蒙古における日本の権益を確保するといった内容でしたが、それ以外に中国の内政に干渉するような要求も含まれていたため、アメリカやイギリスから領土的野心を疑われるようになります。ちなみに日本はドイツと交戦状態にあり未だ戦後の講和内容が不明な状態であるため、中国内のドイツ権益を保全管理する必要性があり、その点はアメリカやイギリスともに理解していました。
ドイツ東洋艦隊のうち、装甲巡洋艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」と防護巡洋艦「ニュルンベルク」「ライプツィヒ」「ドレスデン」といった主要艦が東太平洋方面へ向かったことから、日本海軍は戦艦「薩摩」巡洋戦艦「鞍馬」「筑波」「生駒」装甲巡洋艦「浅間」「磐手」などによる南遣支隊を派遣し、ドイツ艦隊の追跡と赤道以北のドイツ領の確保をします。また、ドイツ東洋艦隊の防護巡洋艦「エムデン」がインド洋で通商破壊行動を行なっていたため、イギリスの要請を受け日本海軍は巡洋戦艦「伊吹」装甲巡洋艦「日進」「常盤」「八雲」などによる特別南遣艦隊をオーストラリア海軍護衛として向かわせ合同で討伐作戦を展開しますが、最終的に「エムデン」を攻撃し降伏させたのはオーストラリアの巡洋艦「シドニー」でした。これを以て、アジア太平洋地域の海戦は終わりとなります。
東太平洋から本国まで戻ろうとしたドイツ東洋艦隊は、チリ南部でイギリス海軍と1914年11月にコロネル沖海戦を戦いイギリスの装甲巡洋艦「グッドホープ」「モンマス」を沈没させます。その後、大西洋まで巡航したドイツ東洋艦隊は、翌月にフォークランド沖で再びイギリスと海戦を行ないます。イギリスは当時最新鋭の巡洋戦艦「インヴィンシブル」と同型艦「インフレキシブル」に装甲巡洋艦「コーンウォール」「ケント」「カーナヴォン」などを加え、ドイツ東洋艦隊を返り討ちにします。このフォークランド沖海戦では、高速で砲力にも勝る巡洋戦艦によるアウトレンジ戦法でイギリスが一方的な勝利を収め1隻も失うことなくドイツの「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ニュルンベルク」「ライプツィヒ」の4隻を撃沈します。逃げ延びた「ドレスデン」も翌年3月にチリ沖で「ケント」「グラスゴー」などと交戦後に自沈してしまい、ドイツ東洋艦隊は全滅となります。
残されたドイツ艦隊はイギリス海軍により本国の港に押し込められる形となってしまい、状況打破のためにイギリスの港湾都市に対し小艦隊による断続的な砲撃を繰り返します。そのような中、1915年1月に北海のドッガー・バンクでドイツとイギリスの巡洋戦艦同士の砲撃戦が行なわれます。巡洋戦艦5隻を主力とするイギリス艦隊に対し、巡洋戦艦3隻に装甲巡洋艦1隻が主力のドイツ艦隊は劣勢であり退却すると決めたところ、イギリス側は追撃戦を仕掛けドッガー・バンク沖海戦となります。ドイツの巡洋戦艦「ザイドリッツ」「モルトケ」「デアフリンガー」は27kt程度の速力がありましたが、装甲巡洋艦「ブリュッヒャー」は25kt強でした。一方、イギリス側は巡洋戦艦「ライオン」「タイガー」「プリンセス・ロイアル」は約28ktと高速で、同じ巡洋戦艦でありながら「ニュージーランド」「インドミタブル」は26kt弱でした。そこで、「ライオン」「タイガー」「プリンセス・ロイアル」が「ザイドリッツ」「モルトケ」「デアフリンガー」を、「ニュージーランド」「インドミタブル」は「ブリュッヒャー」を攻撃目標とし砲撃戦が行なわれ、ドイツの「ザイドリッツ」「ブリュッヒャー」とイギリスの「ライオン」が被弾し大破します。「ザイドリッツ」は航行が可能でしたが、「ライオン」は左舷側エンジンが停止し脱落してしまい、装甲巡洋艦の「ブリュッヒャー」は「ライオン」を除く巡洋戦艦4隻の集中砲火を浴びる形になり撃沈されてしまいます。その間にドイツの巡洋戦艦3隻は戦線を離脱することとなり、戦闘は終了します。ドイツは巡洋艦1隻を失い巡洋戦艦も被害を受けるという結果から装甲の強度に対する必要性を認識し防御力に劣る巡洋戦艦を中心に装甲の強化を図りますが、イギリスは「ライオン」が同様な弱点を見せていたにも関わらず何の対策も講じませんでした。
{ユトランド沖海戦}
その後も小競り合い程度の戦闘はあるものの睨み合い状態が続く中、ドイツは警戒中のイギリス艦隊をおびき出し個別に撃破する作戦を立てますが、イギリス側は無線傍受によりすぐさま呼応したため、両艦隊が総力で戦うユトランド沖海戦(ジュットランド沖海戦とも)が1916年5月に発生することになります。この海戦では、イギリスが戦艦28隻、巡洋戦艦9隻、装甲巡洋艦8隻を含む150隻余り、ドイツは戦艦16隻、巡洋戦艦5隻に旧式戦艦6隻など約100隻という、史上最大の大艦隊による砲撃戦が行なわれました。最初は偵察部隊であった巡洋戦艦同士の砲撃戦で始まり、イギリス側の主力艦は巡洋戦艦「インディファティガブル」と「クイーン・メリー」が轟沈し「ライオン」が大破しますが、ドイツ側で大破となった主力艦は巡洋戦艦「ザイドリッツ」のみでした。引き続いて艦隊本隊を含む全艦による決戦が行なわれますが、ここでもイギリス側の損害が大きく、装甲巡洋艦の「ディフェンス」が轟沈させられ「ウォーリア」も沈没し、戦艦「ウォースパイト」は操艦不能となり、巡洋戦艦「インヴィンシブル」も轟沈してしまいます。それに対しドイツ側は、この時点では巡洋戦艦の「リュッツオウ」が大破し「フォン・デア・タン」「デアフリンガー」が中破という状況でした。夜になったため、当時は敵味方の判別が難しくなることから戦闘規模が縮小されることとなりますが、戦果的にはドイツが優勢とはいえ戦力的には未だイギリスの方が有利であることから、ドイツ艦隊は戦線離脱を画し巡洋戦艦4隻を囮とし本隊を退避させようとします。ドイツの巡洋戦艦部隊はイギリスの砲撃を浴び艦上は残骸のようになりますが、強靭な防御力により航行は可能でした。この援護によりドイツ本隊は敵前回頭でき逃走を始めますが、イギリス艦隊の猛追を受け両軍艦の隊形が乱れる中で戦艦同士の砲撃戦が始まります。しかし、夜闇が訪れたことからイギリス艦隊は味方艦への砲撃を避けるために砲撃を止めてしまい、これによりドイツ艦隊は安寧を得ることができました。しかし、局地的には夜戦も行なわれ、ドイツの旧式戦艦「ボンメルン」が雷撃により沈没し、イギリスの装甲巡洋艦「ブラック・プリンス」は砲撃により沈没しています。ちなみにドイツの巡洋戦艦「リュッツオウ」は艦首部分が大きく沈み込み舵が海面から浮き出てスクリューが空回りする状態から航行不能と判断され自沈処分となります。そして翌朝、ドイツ艦隊はイギリス艦隊と大きく離れることに成功し、もはや戦闘は続行できなくなってしまい、ユトランド沖海戦は終わります。この海戦で、ドイツは巡洋戦艦1隻と旧式戦艦1隻を合わせ11隻を失いますが、イギリスは巡洋戦艦3隻と装甲巡洋艦3隻を含む計14隻もの艦艇を失っています。戦果からするとドイツの勝利といえそうですが、海戦終了後のイギリスには戦闘可能な(旧式ではない)戦艦と巡洋戦艦が24隻残っていましたがドイツは10隻だけしかない状態となり、その後もイギリスが制海権を握りドイツは艦隊を自由に出港させることができないままであり、戦略面からはイギリスの勝利(敗北はしていない)ということになります。この海戦を迎えるにあたり、ドイツはドッガー・バンク沖海戦の教訓から防御面の強化を図っていましたが、イギリスは「速度は装甲」という敵艦より高速で、かつ優れた射撃により射程外から圧倒するという巡洋戦艦設計時の考え方のままであり、しかもドイツ兵の方が訓練の成果により射撃指揮が優れ命中率が高いという実態でした。艦艇を設計する上で、巡洋戦艦の防御上の脆さが露呈し、また旧式戦艦等の低速艦は戦闘に間に合わず役に立たなかったことも問題点として認識され、その解決策として列強各国は戦艦の攻撃力と装甲性を持ちながら巡洋戦艦の高速性を有する高速戦艦の建造に取り組むこととなります。
ユトランド沖海戦後、ドイツの海上戦力は港湾に釘付けとなったことから、イギリスの船舶輸送を妨害することを目的に潜水艦Uボートを使った通商破壊作戦を実施します。このことは、アメリカの対ドイツ宣戦布告を招き、日本海軍が地中海へ軍艦を遠征させることにつながります。イギリス・フランス・ロシアは日本をヨーロッパ戦線に参加させるため、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本に引き継ぐという秘密条約を結び、これを受けて日本海軍は、インド洋に第一特務艦隊(防護巡洋艦「須磨」「矢矧」「対馬」「新高」など)、地中海には第二特務艦隊(防護巡洋艦「明石」駆逐艦複数)を派遣し、輸送船団の護衛を担当しますが、第二特務艦隊の駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリーの潜水艦「U27」の雷撃で大破してしまいます。また他に、日本には造船余力があったことからフランスからの駆逐艦建造依頼を受け樺型駆逐艦と同等のアラブ級駆逐艦12隻を納入するといった支援も行ないます。日本海軍は、ドイツ側潜水艦の攻撃を受けた連合国船舶から多数救出したり、地中海を渡海する連合国軍の輸送作戦での護衛任務を成功させ連合国側の西部戦線を下支えしたりと、地中海において目覚ましい活躍をしており、イギリス商船の救助についてはイギリス国王ジョージ5世から叙勲されるなど、連合国諸国から高い評価を得ることになります。このことは、戦後のパリ講和会議で日本の高い貢献度を印象づけるものになりました。
【第一次世界大戦時の艦艇】
香取(かとり)鹿島(かしま)
日露戦争に備えてロシアの戦艦急増に対抗するためにイギリスに発注した戦艦が「香取」と「鹿島」であるが、竣工前に日露戦争は終結している。イギリスの「キング・エドワード7世」をモデルに設計され、30.5cm45口径連装砲2基の主砲だけでなく準主砲といえる25.4cm45口径単装砲4基を有するという世界最強クラスの戦艦として両艦とも1906年(明治39年)5月に完成する。しかし、その約半年後の1906年12月にイギリスの「ドレッドノート」が竣工したことから、いきなり旧式艦との烙印を押されることになる。「香取」はイギリスのヴィッカース社で建造され、排水量15950tで速度は18.5ktの戦艦として竣工し、明治天皇皇太子(後の大正天皇)の大韓帝国巡啓時の御召艦となる。その後も、大正天皇や大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の御召艦として行動し、日本国内だけでなくヨーロッパへも訪問する。第一次世界大戦で出動することがあったものの、ワシントン軍縮条約で廃棄と決まり1924年に解体されるまで、そのほとんどを御召艦として過ごした。「鹿島」はイギリスのアームストロング社で建造され、排水量16400tで速度は18.5ktの戦艦として竣工する。その後は「香取」と同じように御召艦、あるいは「香取」が御召艦の時は随艦として行動するが、ワシントン軍縮条約で廃棄が決まり1924年に解体される。
薩摩(さつま)安芸(あき)
主力艦の建造を他国に頼らずに初めて国内生産した戦艦が「薩摩」と「安芸」で、日本が初めて設計をする戦艦であるため香取型戦艦の機能強化版として設計された。主砲は香取型と同じものの準主砲は25.4cm45口径連装砲6基と3倍に強化されており世界最強の戦艦となるはずであったが、イギリスの「ドレッドノート」が先に完成してしまったため、建造中から旧式艦と呼ばれることとなる。「薩摩」は横須賀海軍工廠で建造され1910年(明治43年)3月に排水量19372t速力18.25ktで竣工し、大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の御召艦や随艦として活動後、第一次世界大戦では第二南遣支隊に組み入れられ太平洋上のドイツ領南洋諸島の攻略作戦などで活躍する。その後、天皇巡啓時の供奉艦を務めるが、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決まり1924年9月に館山沖で射撃標的艦として処分される。「安芸」は呉海軍工廠で建造されるが「薩摩」とは異なりタービン機関を採用したため煙突が2本から3本に増え排水量20100tで速力20ktとなり1911年(明治44年)3月に竣工する。1912年の横浜沖合での観艦式で随艦をするなどした後、第一次世界大戦に参加するが外洋遠征などは行なわれなかった。その後は、大正天皇皇太子(後の昭和天皇)巡啓時の供奉艦や先導艦を務めるが、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決まり1924年9月に野島崎沖で射撃標的艦として処分される。
河内(かわち)摂津(せっつ)
イギリスの「ドレッドノート」竣工により、それまでの戦艦が全て旧式とされてしまったため、急遽建造することとなった日本最初のド級戦艦が「河内」と「摂津」である。主砲配置はドイツ海軍の戦艦ナッサウ級やヘルゴラント級と同じく舷側主砲を背中合わせにする亀甲型(六角形状)としたため、敵がいない舷側の主砲(全体の三分の一)が使用されないという欠点があった。また主砲は全門30.5cmであったが、艦首と艦尾は新設計の50口径で舷側は従来の45口径と砲身長が異なっており、このままでは統一射撃指揮ができずド級戦艦としての条件を満たさないことから、準ド級戦艦ともいわれる。そこで、50口径の砲弾の装薬量を変え、45口径と同等の初速とすることで統一した射撃指揮を実現させており、実運用上はド級戦艦として使用することができていた。ちなみには50口径の砲弾は高初速で撃ち出すと砲身がしなり命中率が低下するという欠陥があったため、装薬量を変えるという手当は妥当なものと考えられた。また30.5cm50口径砲は、金剛型戦艦での採用が検討されていたものであり、事前に欠点が発見されたことは利点といえ、金剛型戦艦は35.6cm45口径砲を採用することとなる。「河内」は横須賀海軍工廠で建造され1912年(明治45年)3月に排水量20800t速力20ktで竣工する。第一次世界大戦に参戦し東シナ海や黄海の警備に従事した後、徳山湾に停泊中の1918年(大正7年)7月に突然1番砲塔舷側から発火し大爆発を起こし船体が右に傾斜して転覆着底してしまう。「摂津」は呉海軍工廠で建造され1912年(明治45年)7月に排水量21443t速力20ktで竣工し、第一次世界大戦に参戦する。「河内」爆沈後、「摂津」は大正天皇の御召艦となるが、ワシントン軍縮会議で戦艦「陸奥」を保有する代わりに「摂津」は退役させられて標的艦となる。しかし、1923年にドイツが軍艦を無線操縦する技術を開発したことを聞き、日本海軍もその研究を始めることとし、1928年に無人操縦装置の試作機を完成させ、ワシントン軍縮条約失効後の1937年には本格的な無人操縦装置を作成することができ「摂津」に搭載し実験することとなる。操縦船は駆逐艦「矢風」とし、主力艦の砲撃訓練や航空機の雷撃・爆撃訓練を無人状態で実施するほか、「摂津」艦内に頑丈な防禦区画に設けて航空攻撃からの回避訓練も行ない操艦技術の向上にも役立てることとした。この訓練により、捷一号作戦で第四航空戦隊司令官松田千秋少将は指揮下の戦艦「日向」「伊勢」を無事生還させている。太平洋戦争を通して訓練任務に就き、1945年7月のアメリカ軍機呉軍港空襲で大破着底し終戦を迎える。
筑波(つくば)生駒(いこま)
日露戦争開始3ヶ月で沈没した戦艦「八島」「初瀬」の損失を補う必要から臨時軍事費により急遽建造が決まり、戦時下であったため外国に建造依頼するのではなく主力艦も国産化をするとの判断がなされ、まずは装甲巡洋艦が呉海軍工廠で急造されたが日露戦争には間に合わず、「筑波」が1907年(明治40年)1月、「生駒」が翌年3月に竣工する。両艦とも日本で建造する軍艦としては始めて排水量一万屯超となる13750tの大艦であったが、主砲には戦艦と同じ30.5cm45口径連装砲を搭載し、副砲も従来の装甲巡洋艦よりも強力な15.2cm45口径速射砲にするという意欲的な設計をしており、主力艦として世界で初めて衝角(ラム艦首)を廃止し、速度は巡洋艦に匹敵する20.5ktで装甲は戦艦並みという、高速戦艦と呼んでも差支えないほど当時としては画期的な軍艦として建造されていた。しかし、既にイギリスの「ドレッドノート」は完成しており、「生駒」竣工と同時に世界初の巡洋戦艦「インヴィンシブル」も竣工してしまい、すぐに旧式艦と位置づけられることとなるが、1912年に新たな艦種として巡洋戦艦が新設されると「筑波」「生駒」はともに巡洋戦艦に類別される。「筑波」は防護巡洋艦「千歳」とともにアメリカ殖民300年祭記念観艦式(ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪する。第一次世界大戦では西太平洋の哨戒任務や南洋諸島占領作戦などに従事していたが、横須賀港に寄港中の1917年6月に前部火薬庫の爆発により爆沈する。「生駒」はアルゼンチン独立100周年記念式典に参加した後、南米から欧州まで訪問する。第一次世界大戦では南洋方面で行動し、大戦後は主に大正天皇皇太子(後の昭和天皇)の御召艦を務めるも、ワシントン海軍軍縮条約で廃棄が決まり1924年に解体される。
鞍馬(くらま)伊吹(いぶき)
筑波型を改良した排水量14636tの装甲巡洋艦として横須賀海軍工廠で「鞍馬」が建造され、呉海軍工廠で「伊吹」が建造される。主砲は筑波型と同じ30.5cm45口径連装砲2基4門であるが、副砲は20.3cm45口径連装砲4基8門と強化されている。機関については性能比較をするため、「鞍馬」は従来と同じレシプロエンジンとし速力21ktであったが、「伊吹」にはカーチス式直結タービンを搭載し速力22ktとなる。タービン機関の採用としてはイギリスに次ぐもので、ドイツ、フランス、アメリカよりも先行していた。「伊吹」は日本におけるタービン機関の試験艦と位置づけられ建造が先行されたため、 1911年(明治44年)2月竣工の「鞍馬」よりも早く1909年11月に竣工している。「鞍馬」はジョージ5世の戴冠記念観艦式に参加するため防護巡洋艦「利根」と遣英艦隊を編成しイギリスを訪問し、「伊吹」はシャム国王ラーマ6世の戴冠記念観艦式に参加するためタイを訪問する。巡洋戦艦の類別が1912年に新設されると「鞍馬」と「伊吹」は巡洋戦艦となる。第一次世界大戦では、「鞍馬」は第一南遣支隊に属し太平洋の南洋諸島に出向き、「伊吹」は防護巡洋艦「筑摩」とともに特別南遣艦隊としてドイツ巡洋艦「エムデン」討伐に従事する。シベリア出兵では「鞍馬」「伊吹」ともに支援にあたる。その後、「伊吹」は御召艦任務を任されることもあったが、ワシントン海軍軍縮条約では両艦ともに廃棄と決まり1924年に解体される。
利根(とね)
日露戦争での喪失艦された防護巡洋艦「吉野」の代替艦として建造された防護巡洋艦が「利根」で、佐世保海軍工廠で建造された初の大型艦である。「吉野」を参考に設計されたが、「吉野」が装甲巡洋艦「春日」の衝角(ラム)で沈没したことを受け、砲撃射程の延伸により衝角は敵艦攻撃よりも味方艦の脅威になると判断され廃止し、クリッパー型艦種を採用した。兵装も「吉野」と同等であるが、重量削減のために15.2cm砲2門は12cm砲に変更され、15.2cm40口径単装速射砲2と12cm40口径単装速射砲10門となる。直前に建造した防護巡洋艦の「新高」「対馬」「音羽」では魚雷兵装を実装しなかったが、日露戦争で雷撃が効果的であったことと排水量4113tと艦形が大型化したことから、復活させている。また、レシプロ機関を搭載した最後の巡洋艦となったが、速度は「吉野」と同等の23ktとなる。1910年(明治43年)5月に竣工し、装甲巡洋艦「鞍馬」とともにジョージ5世戴冠記念観艦式に参加するため遣英艦隊を編成してイギリスを訪問し、その後ヨーロッパ各国を歴訪する。第一次世界大戦では、第二水雷戦隊旗艦として青島攻略戦に参加し、続けて南シナ海やインド洋での作戦に従事した後、1931年(昭和6年)に除籍となり、1933年4月に奄美大島近海で射撃爆撃標的として撃沈処分される。
筑摩(ちくま)矢矧(やはぎ)平戸(ひらど)
戦艦や巡洋戦艦の高速化に応じるため、タービン機関により速度アップをした防護巡洋艦が筑摩型の3隻であり、タービン機関の比較検証も兼ね異なる方式を採用している。「筑摩」「平戸」はブラウン・カーチス式で「矢矧」はパーソンズ式とし、公試(最終性能試験)で「矢矧」のみ27kt超(他2隻は26kt強)を記録する。排水量は5000tで、兵装は15.2cm45口径単装速射砲8門を備え、装甲としては防護巡洋艦であるにもかかわらず舷側の一部に防御装甲を施しており軽巡洋艦への過渡期と位置づけられるもので、日本海軍最後の防護巡洋艦となった。「筑摩」は1912年(明治45年)5月に佐世保海軍工廠で竣工し、第一次世界大戦で巡洋戦艦「伊吹」とともにドイツ巡洋艦「エムデン」討伐に参加した後、1931年(昭和6年)に除籍されて標的艦となり撃沈処分される。「矢矧」は1912年(明治45年)7月に三菱重工長崎造船所で竣工し、第一次世界大戦で南洋諸島占領作戦に参加した際、オーストラリアのフリーマントルに寄港時、オーストラリアに日本敵視感情があったため沿岸砲から一発砲撃されるというトラブルが発生する。その後、1940年(昭和15年)に除籍されて練習船となり終戦を迎える。「平戸」は1912年(明治45年)7月に川崎重工神戸造船所で竣工して、第一次世界大戦では南洋諸島占領作戦等に参加し、第一次上海事変でも支援活動を行なった後、1940年(昭和15年)に除籍され練習船となり終戦を迎える。
若宮(わかみや)
日本海軍初の水上機母艦が「若宮」で、日露戦争時に鹵獲したイギリスの貨物船「レシントン」を水上偵察機4機が搭載できるように改造したものである。水上機母艦とは、水上機を搭載してカタパルトあるいは水上に降ろして発進させ、帰還し着水したた水上機はクレーンで吊上げ格納する軍艦で、第一次世界大戦時は水上機母艦を「航空母艦」と呼称していた。世界初の水上機母艦はフランスの「フードル」で、元は水雷艇母艦であったが水雷艇の大型化により格納が難しくなったことから代わりに水上機用の母艦として改造したもので、水上機8機分の収容設備を持ち1912年から運用される。日本海軍は、1913年(大正2年)に当時はまだ貨物船であった「若宮丸」に水上偵察機3機を搭載して軍事演習に参加させた後、翌年水上機母艦へと改造し前後甲板上に1機ずつと格納所に分解して2機の水上機の搭載を可能とし、第一次世界大戦が開始すると青島攻略戦にて航空作戦に従事させる。ただし、カタパルト実用化前であったため、海上の飛行基地として燃料補給等の整備保守を主な作業であったが、有効性は十分に立証した。同時期、イギリスでは建造途中の貨物船を設計変更して1914年12月に水上機母艦「アーク・ロイヤル」を竣工させ、オスマン帝国の巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」に爆撃を試みており、1915年8月にはフェリーを改装した「ベン・マイ・クリー」の搭載機が航空魚雷でトルコ商船の雷撃を成功させている。日本海軍は、「若宮丸」を1915年に二等海防艦「若宮」として軍艦に編入し、大戦後の1920年には仮設の滑走台を設け陸上機の発艦実験を行なっている。1920年の類別変更で航空母艦が新設された際には「若宮」を日本海軍最初の航空母艦としているが、実体としては水上機母艦である。1925年まで艦隊へ配属された後、佐世保鎮守府警備艦となり1931年に除籍される。
日本海軍 日露戦争
日清戦争後、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉で清国に遼東半島を返還することとなりましたが、ロシアは清国と露清密約を結んで遼東半島の南端の旅順と大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順にはロシア太平洋艦隊の基地を造ってしまいます。東アジアにおける南下政策を推し進めたいロシアは、1900年に義和団の乱(北清事変)が起きると、その混乱に乗じて満州を占領し植民地化しようとします。それに対し日英米が抗議をすると撤兵を約束するものの、実際は撤退せず逆に駐留軍を増強してしまいます。当時ヨーロッパにおいてロシアと敵対していたイギリスは、ロシアの南下により清国における権益が危険にさらされると感じていましたが、南アフリカのボーア戦争で国力が低下していたため、孤立政策を捨て日本と同盟することとし、1902年に日英同盟を締結しました。1903年になり日露間で交渉が始まり、朝鮮半島は日本、満州はロシアをそれぞれ支配下に置くという妥協案を日本からロシアに提案しますが、ロシアからは、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるとの回答します。これでは、朝鮮半島が事実上ロシアの支配下にされ、日本の独立も危ぶまれると考えられ、またシベリア鉄道が全線開通すると軍隊移動が容易になるので、その前に開戦すべきとの判断から、1904年2月6日に日本よりロシアに対し国交断絶を通知し、戦争が避けられない状態となりました。
日本海軍は、ロシアとの戦争を想定した軍備拡張を推進していました。まず、三国干渉直後に戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻を主力とする六六艦隊計画を構想します。日清戦争での海戦では高速の巡洋艦による速射砲攻撃で勝利を収めたことから、巡洋艦も主力艦艇と位置づけています。実は日清戦争を控えた1893年の建艦計画に基づき戦艦建造予算が申請されていましたが、高額の費用となるため当時の帝国議会が要求を否決したところ、それを明治天皇が憂慮し皇室費用等を削減し戦艦購入資金とする詔勅により、イギリスに戦艦2隻の発注をしたという経緯があります。それが「富士」と「八島」の2隻で、排水量が12000tを超える日本海軍待望の本格的な初の戦艦となりました。それに続く4隻は「富士」をベースに改良を施して建造された「敷島」「朝日」「初瀬」「三笠」で、当時としては世界最大で最新鋭の戦艦でした。装甲巡洋艦は外交上の配慮から、イギリスばかりでなくドイツとフランスにも建造を依頼することとしましたが、各国の建艦技術を習得する機会にもなりました。ドイツには「八雲」1隻、フランスには「吾妻」1隻、そしてイギリスに「出雲」と「磐手」の2隻の建造を発注しますが、ロシア海軍がハイペースで増強していることを知り、イギリスで建造中の装甲巡洋艦を買い取り「浅間」「常盤」とし、合計6隻が揃うこととなりました。
日本海軍は六六艦隊が用意できたことから、それまでの常備艦隊を解散し、1903年12月に戦艦6隻を中心とする第一艦隊と装甲巡洋艦6隻を中心とする第二艦隊を組織した上で、それを統合する連合艦隊を編成し、連合艦隊司令長官には東郷平八郎中将を任命します。ちなみに、ロシアとの開戦後、日清戦争時の主力艦で構成した第三艦隊も連合艦隊に編入します。
ところで、もはやロシアとの戦争は不可避と考えていたため、継続して軍艦の増強が必要と判断し、イタリアでアルゼンチン海軍向けとして完成間近であった装甲巡洋艦を購入します。「春日」「日進」と命名された2隻は、開戦後6日目に日本に回航され、日本海軍は巡洋艦8隻体制で戦うこととなります。
【日露戦争】
1904年(明治37年)2月6日の国交断絶通知後、最初に行なわれた戦闘は仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)で、仁川港にいたロシアの防護巡洋艦「ワリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、第四戦隊の巡洋艦(「浪速」「高千穂」「明石」「新高」)と装甲巡洋艦「浅間」、防護巡洋艦「千代田」、それに第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻が攻撃し、「コレーエツ」は自爆し「ワリャーグ」は自沈しています。
初戦で敗北したロシア極東の旅順艦隊は日本海軍との戦闘を避け旅順港に籠り、ロシア海軍の本隊といえるバルチック艦隊の到着まで戦力を温存する作戦をとります。日本としては、陸戦隊を海上輸送する上で制海権が必要があり、ロシア極東艦隊を無力化させなければならず、そのために旅順港閉塞作戦を展開します。旅順港は湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させて閉じ込めてしまおうというものですが、複数回にわたり閉塞作戦を実施するものの実効を上げるには至りませんでした。ただ、4月の第七次攻撃の時、ロシア戦艦「ペトロパヴロフスク」が日本の敷設した機雷に触れ、砲弾と魚雷の誘爆を招きボイラーも爆発したことにより沈没し、座乗していた艦隊司令官のステパン・マカロフ中将が戦死します。逆に、5月にはロシアの機雷敷設により、日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」、それに通報艦「宮古」と駆逐艦「暁」が触雷し沈没しています。また、濃霧での行動により視界不良となり、防護巡洋艦「吉野」が装甲巡洋艦「春日」に衝突されて沈没し、砲艦「大島」も砲艦「赤城」に衝突されて沈没します。日本海軍は、わずか数日で戦艦を含め複数艦を一挙に失うという災難に見舞われます。併せて、9月には駆逐艦「速鳥」、12月には防護巡洋艦「高砂」が触雷により沈没し、砲艦「愛宕」は10月に座礁沈没しており、旅順港閉塞作戦では多くの艦艇を失っています。第一艦隊は戦艦2隻を失ってしまいますが、その代わりに装甲巡洋艦「春日」「日進」を組み込んで6隻編成は維持します。
海上からの攻撃は難しいとの判断から陸戦部隊による砲撃に切り替えたところ、戦艦「ツェサレーヴィチ」「レトヴィザン」などに損傷を与えることができ、司令官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将も負傷してしまいます。そこで、旅順艦隊は危険を回避するためにウラジオストクに移動を図りますが、それを待ち構えていた連合艦隊が攻撃をしかけ黄海海戦(こうかいかいせん)となります。しかし、旅順艦隊は応戦せず逃亡を試みたため、連合艦隊が追いつき砲撃をしたところ、「ツェサレーヴィチ」の艦橋に直撃し司令官のヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将が戦死します。それにより、ロシア旅順艦隊の大半は再び旅順へと逃げ戻りますが、各艦が受けた損害を修復する力はなく、ただ存在するのみといった状態になります。極東艦隊のうち、「ツェサレーヴィチ」は旅順に戻れず駆逐艦3隻とともにドイツ租借地の膠州湾に逃げ、また、防護巡洋艦「アスコリド」と駆逐艦1隻は上海、防護巡洋艦「ディアーナ」はフランス領インドシナのサイゴンで抑留されます。防護巡洋艦「ノヴィーク」は樺太のコルサコフ沖で追撃してきた防護巡洋艦「千歳」「対馬」とコルサコフ海戦を戦った末に放棄されますが、後に日本が樺太を占領した際に浮揚され修理し通報艦「鈴谷」として日本海軍に編入されます。
また、ロシア極東のウラジオストク艦隊は日本の通商破壊行動を行なっていましたが、日本海軍は捕捉できずにいたところ、旅順艦隊のウラジオストク移動と同期をとって装甲巡洋艦「ロシア」「グロモボイ」「リューリク」3隻が出撃し朝鮮半島の蔚山沖を航海していたところ、連合艦隊第二戦隊(「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」)に発見されます。ウラジオストク艦隊は逃亡を図りますが、北上してくる「浪速」に挟まれる形となり、そこで蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)が行なわれます。砲撃戦の中、「リューリク」が集中砲火を浴びて戦列を離れることとなり、「ロシア」「グロモボイ」はウラジオストクに帰還できましたが、「リューリク」は「浪速」と途中から参戦してきた「高千穂」の攻撃を受けた後、自沈します。その間、ウラジオストク艦隊の補助巡洋艦「レナ」はサンフランシスコに逃走しますが抑留されてしまい、ウラジオストクに戻った「ロシア」「グロモボイ」も破損がひどく修理が捗らない状態であり、ウラジオストク艦隊は機能不全となります。
これにより、日本海の制海権を確保した日本海軍は、ロシア海軍のバルチック艦隊の到着するまで、各艦を修理整備し、射撃訓練等を重ねることもでき、準備万端といえる状態でバルチック艦隊を待ち受けることができました。
ロシア側は、バルチック艦隊により日本海の制海権を奪うことで日本の補給線を断ち、朝鮮半島の日本陸軍を孤立させることを狙いとしており、バルチック艦隊と日本の連合艦隊との決戦が日露戦争の帰趨を決するものと位置づけられることとなりました。当初は旅順を目指していたバルチック艦隊ですが、日本陸軍により旅順が攻略されたことにより、目的地をウラジオストクに変更します。そこで、日本海軍は対馬海峡を通過し日本海を北上してウラジオストクに向かうものと想定しますが、その予想通りにバルチック艦隊は現れ、雌雄を決する日本海海戦が行なわれます。
1905年(明治38年)5月27日午後、両艦隊は接近し戦闘状態に入ります。バルチック艦隊は旧式軍艦が含まれる混成編成であり、ヨーロッパからの半年以上に亘る回航により艦艇も兵士も疲弊していましたが、連合艦隊は新造の軍艦で兵装も統一されており、前年8月の蔚山沖海戦以降は整備と訓練で精度も向上しています。艦隊戦が始まると、高速船による命中度の高い砲撃で連合艦隊は次々と戦果を上げていきますが、特に砲弾の違いによりロシア軍艦は無力化されてしまいます。ロシアは高初速軽量の徹甲弾であったため遠距離砲戦では威力が減衰し命中しても穴を空けて突き抜けるだけですが、日本は徹甲榴弾による速射砲であり下瀬火薬を採用したことにより着弾後すぐに火災を発生させます。そのため、ロシア軍艦は砲撃による沈没というよりは艦上での大規模な火災により攻撃不能とさせられ機関にも延焼し航行もできなくなって沈没するという状態になります。日本海軍は、日中の砲撃戦の後、夜間には駆逐艦や水雷艇による魚雷や連繋水雷で攻撃し、翌日はまた砲撃戦による追撃を繰り返すという波状攻撃を行ないます。ついにはバルチック艦隊は壊滅状態となってしまい降伏を宣言したため、日本海海戦は終了を迎えます。連合艦隊の損失は水雷艇の沈没3隻だけでしたが、バルチック艦隊は沈没が21隻を数え、6隻は拿捕されてしまい、他に6隻が逃走したものの抑留され、ウラジオストクに入港できた艦艇は防護巡洋艦1隻と駆逐艦2隻しかないという状態であり、また司令官が捕虜として拘束されるなど、大艦隊の決戦としては史上稀に見る一方的な勝利という結果になりました。
日本海海戦の結果、バルチック艦隊を壊滅され日本海の制海権を奪うことのできなかったロシアでは、帝政に対する国民の不満も増大し革命の萌芽といえる血の日曜日事件も発生し、戦争継続が困難な状態に陥ります。日本も国力を上げた戦争であったため、戦費はかさみ国内産業も稼働低下し国力の消耗は激しいものとなっていました。そこで、アメリカの仲介による終戦交渉に臨みますが、その間に日本軍は樺太攻略作戦を実施し全島を占領しています。
1905年(明治38年)9月になり「ポーツマス条約(日露講和条約)」を締結し、日本は満州南部の権益と朝鮮半島(大韓帝国)に対する排他的指導権を獲得し、樺太南半分を領土として譲渡されますが、戦争賠償金は放棄することとなりました。賠償金が得られなかったことから、戦時中の増税による耐乏生活を強いられていた国民は日比谷焼打事件などの暴動を起こし講和を斡旋したアメリカも襲撃してしまい、その結果、戒厳令が発令され内閣が退陣する事態となります。しかし、対外的には賠償金を放棄して講和したことが好意的に受け取られ、また軍艦沈没により漂流したロシア兵に対する丁寧な対応もあり、日本に対する評価が高まることになり、明治維新時に結ばれた不平等条約改正への道筋がつけられることとつながります。それに加え、欧米諸国から恐れられる大国であり、イギリス・フランスに次ぐ海軍力を誇っていたロシアに勝利したことで、一躍列強諸国の仲間入りをし「一等国」と自称するようになりました。日露戦争では触雷にて戦艦2隻を喪失しますが、戦果としてロシアから戦艦6隻を獲得します。他にもロシア軍艦を多数接収し修理改造の後、日本海軍の軍艦として編入しています。
旅順艦隊の戦艦「ポルタワ」は「丹後」となり第一次世界大戦で青島攻略戦に参加した後、ロシアに返還されます。戦艦「レトヴィザン」はアメリカで建造された軍艦で日本編入時に「肥前」となりますが、日本海軍唯一のアメリカ製戦艦となり、第一次世界大戦で哨戒活動に従事した後、除籍され実弾標的艦となり沈没します。戦艦「ペレスウェート」と「ポペーダ」は姉妹艦で、それぞれ「相模」「周防」となりますが、「相模」はロシアに返還され「周防」は第一次世界大戦後に除籍されます。バルチック艦隊の戦艦「インペラートル・ニコライ1世」は「壱岐」となりますが、ロシア最古参の戦艦であったため、主に練習艦として使用された後、除籍され標的艦となって沈没します。戦艦「オリョール」は「石見」となりますが、ロシア最新鋭艦でありながら復元性に問題があり、第一次世界大戦には海防艦として参加した後、除籍され爆撃標的となり沈没しています。他に、バルチック艦隊の海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」となりますが、第一次世界大戦後に除籍され練習船となり、同型艦の「アドミラル・セニャーヴィン」も海防艦「見島」となった後、シベリア出兵では砕氷艦に改造され、その次には潜水艦母艇となります。駆逐艦「ベドーヴイ」も接収され「皐月」となりますが、第一次世界大戦時は除籍され掃海船「皐月丸」として青島攻略戦に参加し、その後は標的船となります。旅順港に沈没した防護巡洋艦「ワリャーグ」は引き揚げられて防護巡洋艦「宗谷」として日本海軍に編入された後、第一次世界大戦中にロシアに返還されています。また旅順港に着底していた装甲巡洋艦「バヤーン」と防護巡洋艦「パルラーダ」も引き揚げられ、それぞれ巡洋艦「阿蘇」「津軽」として編入されますが、ともに練習艦として使用された後、敷設艦に改造され、最後は標的戦となり沈没します。同型艦であったソーコル級駆逐艦「レシーテリヌイ」と「シーリヌイ」は山彦型駆逐艦「山彦」「文月」として編入しています。「レシーテリヌイ」は日本が鹵獲した艦艇で最初は旅順港閉塞作戦中に沈没した「暁」の艦名を引き継いでいたものの「山彦」に改名されて運用され1917年に除籍となり、「シーリヌイ」は旅順で沈座から引き揚げられた艦艇で「文月」として編入され1913年に除籍となります。
ところで、アメリカは日露講和条約を仲介した功績により、セオドア・ルーズベルト大統領が1906年にノーベル平和賞を受賞し、東アジア地域への発言権を得るようになり関与を深めていくこととなります。
[日本海海戦]
ウラジオストクを目指していたバルチック艦隊は対馬海峡から日本海を進む航路をとりますが、1905年(明治38年)5月27日未明に仮装巡洋艦「信濃丸」が発見し、続けて巡洋艦「和泉」が接触し監視します。その連絡を受けた連合艦隊は、大本営に「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電し、迎撃行動を開始します。午後になり、単縦陣で南西方向に進む連合艦隊は、前方を北東へと向かうバルチック艦隊を認めたため、司令長官東郷平八郎大将は13時55分に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」を意味する「Z旗」を旗艦である戦艦「三笠」に掲げます。
当時の軍艦は舷側に副砲を並べており副砲を使った一斉砲撃をするためには、敵艦に対し横を向く必要がありました。そこで、前進する敵艦隊に対し丁字型で迎える戦法が考えられていましたが、それは敵艦隊の前進を阻むこととなりすぐに丁字を維持できなってしまいます。そこで今回の海戦では、まずは敵前逐次回頭をして敵に圧迫を与えて隊列を混乱させたうえで、連合艦隊側の高速性を活かして同航砲撃戦に持ち込むという作戦を採っています。
14時08分に先頭艦である「三笠」が回頭を終える頃、バルチック艦隊から「三笠」に対する砲撃が開始されますが、14時13分には連合艦隊第一戦隊は回頭を完了し砲撃を始めます。第二戦隊も14時15分から回頭し発砲を始め、バルチック艦隊先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スワロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」をはじめとする各艦に対し徹甲榴弾による一斉砲撃を行ない、多数の命中弾により火災を発生させます。砲撃戦は30分程続き、火災により「クニャージ・スワロフ」と「オスリャービャ」と戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」が戦列から離脱するなど、バルチック艦隊は攻撃力は著しく低下します。15時7分には「オスリャービャ」が沈没します。
そこで戦艦「ボロジノ」が残存艦を率い、それに「インペラートル・アレクサンドル3世」も合流する形となったため、こちらに日本海軍は攻撃を集中することとし、それにより「インペラートル・アレクサンドル3世」と「ボロジノ」は次々と撃沈され、戦艦「ナヴァリン」「シソイ・ヴェリキー」に海防戦艦「アドミラル・ウシャーコフ」と装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」は主力とはぐれる形となります。「クニャージ・スワロフ」は戦闘能力を失い漂流状態になっていたところを駆逐艦「ブイヌイ」に発見され、司令官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将などを移乗させます。ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将は頭部に重傷を負っていたため、指揮はニコライ・ネボガトフ少将に移管されています。その後、「クニャージ・スワロフ」は連合艦隊第11艇隊の魚雷により沈没させられています。
日没となり砲撃戦はいったん終了し日本海軍の戦艦と巡洋艦は退避しますが、駆逐艦や水雷艇がバルチック艦隊の残存艦艇を攻撃します。夜間の水雷攻撃で、散開していたロシア艦艇のうち「ナヴァリン」は沈没させられてしまい、「シソイ・ヴェリキー」と「アドミラル・ナヒモフ」は戦闘不能状態となって自沈処分となり、また装甲巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」は大破してしまいます。これによりバルチック艦隊は司令官ニコライ・ネボガトフ少将が座乗する第3戦艦隊旗艦であった戦艦「インペラートル・ニコライ1世」に第1戦艦隊の戦艦「オリョール」と第3戦艦隊に所属する海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」、海防戦艦「アドミラル・セニャーヴィン」に第2巡洋艦隊の防護巡洋艦「イズムルト」の4隻のみとなってしまいます。翌5月28日朝には、また日本海軍に捕捉され再び攻撃を受けることとなり、そこで司令官ニコライ・ネボガトフ少将の指示により「インペラートル・ニコライ1世」は白旗を掲揚し降伏をします。これにより日本海海戦は終了となります。
しかし、「イズムルト」は逃走を図りウラジオストクへ向かいますが、ロシア沿岸で座礁してしまい爆破されて放棄されます。ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将を乗せた「ブイヌイ」は機関故障が発生しますが、装甲巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」と駆逐艦「ベドヴイ」「グローズヌイ」と合流でき、「ベドウイ」に移乗して「グローズヌイ」とともにウラジオストクへ向かうこととなります。しかし、駆逐艦「漣」「陽炎」に発見され攻撃を受けてしまったため、「ベドウイ」は降伏することとなり、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将は捕獲されます。ただし、「グローズヌイ」は追撃を振り切ってウラジオストクに到達しています。「ドミトリー・ドンスコイ」は「ブイヌイ」を撃沈処分した後、鬱陵島付近で日本海軍の巡洋艦と駆逐艦の攻撃を受けながらも兵員を退艦させ自沈作業を行なってから放棄されて沈没します。「アドミラル・ウシャーコフ」は停船し洋上修理の後、単艦での北上中に装甲巡洋艦「磐手」「八雲」と交戦しますが、抵抗をあきらめて自爆沈没します。夜襲を受け航行不能となっていた「ヴラジーミル・モノマフ」は仮装巡洋艦「佐渡丸」の砲撃を受け沈没し、「ヴラジーミル・モノマフ」と行動を共にしていた駆逐艦「グロームキー」も駆逐艦「不知火」と水雷艇の攻撃により沈没します。バルチック艦隊本隊と離れてしまった防護巡洋艦「オレーク」「アヴローラ」「ジェムチュク」と駆逐艦「ボードルイ」「ブレスチャーシチー」は共に行動し南方へと逃亡していましたが、途中で「ブレスチャーシチー」が前日の戦闘による被弾で沈没してしたため「ボードルイ」が救助をすることとなり遅れます。「オレーク」「アヴローラ」「ジェムチュク」はそのままマニラに入港し抑留され、「ボードルイ」は燃料欠乏で漂流していたところをイギリス船に曳航されて上海で抑留されます。
バルチック艦隊は、戦艦「クニャージ・スワロフ」「オスリャービャ」「インペラートル・アレクサンドル3世」「ボロジノ」「シソイ・ヴェリキー」「ナヴァリン」海防戦艦「アドミラル・ウシャーコフ」装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」「ドミトリー・ドンスコイ」「ヴラジーミル・モノマフ」など21隻が沈没し、戦艦「インペラートル・ニコライ1世」「オリョール」海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」「アドミラル・セニャーヴィン」など6隻が日本に拿捕され、他国に逃げた6隻を除くと、目的地であるウラジオストク港に辿り着くことができたのはわずか3隻(巡洋艦「アルマース」と駆逐艦「グローズヌイ」「ブラヴィ」)のみでした。日本海軍は夜襲時に3隻の水雷艇を失っていますが、1隻は駆逐艦「暁」との衝突による沈んだもので、バルチック艦隊の砲撃により沈没したものは2隻だけであり、艦隊決戦としては日本側の圧勝でした。しかし、この艦隊同士の砲撃戦での劇的な戦勝経験は、以降の日本海軍の大鑑巨砲主義による決戦思想へとつながるものとなってしまいます。
【日露戦争開始時の艦艇】
富士(ふじ)
清国の「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として計画された日本海軍最初の本格的な戦艦が「富士」で、大型艦である戦艦には多大な予算が必要となり帝国議会からの承認が得られず白紙となるところが、明治天皇の勅令によりイギリスに発注している。排水量は12533tであり、日本海軍初の戦艦といえる「扶桑」の3717tに比べ3倍強であり、「鎮遠」の排水量7220tに比べても1.7倍の大きさである。当時の最新鋭艦はイギリス海軍が建造中である「ロイヤル・サブリン」級であるが、それを改良した設計とし、主砲は最新型のアームストロング社製30.5cm40口径連装砲2基に副砲として15.2cm40口径単装速射砲10基というもので、装甲厚は457mmと「鎮遠」の355mmよりも厚いものにもかかわらず、最大速力は18.3ktとなっており、当時の軍艦としては世界最強といえるものであった。1897年(明治30年)9月に竣工すると、天皇勅令により購入したことから御召艦となり、日露戦争では連合艦隊の勝利に貢献し、一等海防艦に類別変更されてからは練習艦となって太平洋戦争中も訓練に使用されて終戦まで残存したという艦歴の長い軍艦であった。
八島(やしま)
富士型戦艦の2番艦が「八島」であり、この艦も明治天皇の勅令によりイギリスに発注された。「八島」とは日本列島のことを指す美称である。「富士」と同型艦であるが、建造会社が異なるため(「富士」はテームズ社、「八島」はアームストロング社)、排水量が12320tと少なく全長全幅にも差異がある。1897年(明治30年)11月に日本に回航され、こちらも御召艦となった後、日露戦争に参戦するが、旅順港閉塞作戦中の1904年5月15日にロシアが敷設した機雷に接触してしまい、約9時間後に転覆し沈没する。
敷島(しきしま)
「敷島」は日清戦争後にロシアに対抗するためにイギリスに発注した敷島型戦艦の1番艦で、富士型戦艦に準じた艦形であるが、内部構造は最新の造船技術が取り入れられ、より強力となった当時世界最大の新鋭戦艦である。「敷島」とは、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)が置かれた磯城(しき)に由来して付けられた日本のことを指す古い国名である。敷島型戦艦の防御甲鈑にはハーヴェイ・ニッケル鋼が使われており、装甲厚としては229mmと薄いものの防御力はより強靭なものである。排水量は14850tとなり、主砲は富士型戦艦と同じ30.5cm40口径連装砲2基であるが副砲は15.2cm40口径単装速射砲14基となり、速力は18ktとなった。1900年(明治33年)1月に竣工され、日露戦争には主力艦として参戦し、一等海防艦となった後、練習特務艦となり「富士」と同様に太平洋戦争中も訓練に使用され終戦まで残存していた。
朝日(あさひ)
敷島型戦艦の2番艦が「朝日」であるが、建造会社の違いにより2本煙突となり「敷島」の3本煙突とは外観が異なる。排水量も15200tとなり全長全幅にも差異があるが、主砲副砲と速力は同等である。「朝日」という艦名は、本居宣長の和歌『敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花』からといわれている。1900年(明治33年)7月に竣工し、日露戦争では主力艦として参加した後、一等海防艦となり練習特務艦を経て、潜水艦救難設備を設置されて潜水艦救難船となり、1937年には工作艦へと改造されて太平洋戦争中は損傷修理に活躍するが、1942年5月にベトナムのカムラン湾沖でアメリカの潜水艦「サーモン」の魚雷攻撃を受け沈没する。
初瀬(はつせ)
敷島型戦艦の3番艦が「初瀬」で、「敷島」と同じ3本煙突であるが、排水量15000tとなり全長全幅にも差異がある。ただし、主砲副砲と速力は同じである。艦名は、古くから和歌によく詠まれている奈良県内を流れる河川名である。1901年(明治34年)1月に竣工し、日露戦争では第一戦隊の旗艦として1904年の旅順港閉塞作戦に従事している時、5月15日にロシア海軍の機雷に接触してしまい、2回目の触雷で後部火薬庫の大爆発を引き起こし沈没してしまう。
三笠(みかさ)
「三笠」は敷島型戦艦の4番艦で、最後に起工されたことから防御甲鈑は最新のクルップ鋼が使われ他の3隻に比べ2~3割ほど防御力が強化されている。また、ボイラー配置により「朝日」と同じ2本煙突であり、排水量は15140tで全長全幅にも差異があるが、主砲副砲と速力は同等になっている。艦名は、こちらも和歌によく詠まれる奈良県の三笠山(若草山)にちなみ命名されている。1902年(明治35年)3月に日本海軍に引き渡され、連合艦隊旗艦として日露戦争に加わり活躍し勝利に貢献するが、1905年佐世保港内で繋留中に後部弾薬庫の爆発事故により沈没着底する。すぐに浮揚修理され復旧し、第一次世界大戦では日本海などの警備活動に従事したが、1921年に一等海防艦となってすぐのシベリア出兵の際、濃霧の中でウラジオストク港外付近を航行している時に座礁し損傷したため、応急修理をした上で舞鶴に帰投している。ワシントン軍縮会議で廃艦と決まるが、保存運動が起きたため、1925年に記念艦として横須賀に保存されることとなった。
八雲(やくも)
「鎮遠」「定遠」を建造したドイツのフルカン社に建造を依頼した装甲巡洋艦が「八雲」で、大型艦としてドイツに発注した唯一の軍艦である。須佐之男命(スサノヲノミコト)が詠んだ最初の和歌『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』から決められた艦名といわれている。六六艦隊を構成する装甲巡洋艦の第1号であるが、先に完成したのは浅間型装甲巡洋艦であった。排水量9695tで、主砲は20.3cm45口径連装砲2基で副砲は15cm40口径単装速射砲12基を備え、速力は20.5ktである。艦首水面下には未だ衝角(ラム)が付いている。1900年(明治33年)6月に日本に回航され、日露戦争では開戦時から連合艦隊に所属し、樺太占領作戦にも従事している。第一次世界大戦で青島攻略戦等に参加した後、練習艦隊に組み込まれ、太平洋戦争時には主砲を高角砲に換装し対空砲台となるが、損傷することなく終戦を迎え、復員艦としても活動した。日露戦争参加艦艇で復員輸送を行なったのは「八雲」だけである。
吾妻(あずま)
六六艦隊のうちフランスに発注した装甲巡洋艦が「吾妻」で、戦艦よりも長い船体を持つ。三国干渉のロシア・ドイツ・フランスのうち、ドイツ・フランスとは対立を避けることを狙いとし、ドイツには「八雲」、フランスには「吾妻」の建造を依頼した。艦名は、福島県の吾妻山による。スペックは「八雲」と同等で、排水量9326tであるが、砲装は20.3cm45口径連装砲2基と15cm40口径単装速射砲12基と同じであり、速力は20ktで、衝角(ラム)も付く。1900年(明治33年)7月に日本に回航されると、日露戦争では「八雲」と共に行動し樺太占領作戦にも従事するが、第一次世界大戦ではインド洋に出撃している。その後、練習艦隊に組み込まれるが「八雲」とは別活動をし、1944年に除籍され翌年解体される。
出雲(いずも)磐手(いわて)
六六艦隊を構成する装甲巡洋艦の第3号が「出雲」で、第4号が「磐手」であるが、浅間型装甲巡洋艦が先に完成しているので、六六艦隊最後の巡洋艦となる。この2艦はイギリスに発注されている。排水量9773tで、20.3cm45口径連装砲2基に15cm40口径単装速射砲14基と「八雲」「吾妻」とほぼ同じで、衝角(ラム)も付くが、装甲は「三笠」と同じ軽くて強いクルップ鋼が使われており、速力は20.8ktである。「出雲」は1900年(明治33年)9月に就役して第二艦隊の旗艦となり、「磐手」は翌年3月に就役して第二艦隊の殿艦となり、ともに開戦時から日露戦争に参加し、蔚山沖海戦で戦果を上げる。「出雲」は、第一次世界大戦では遣米支隊(装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」)の旗艦としてアメリカ西海岸を防衛任務を行なったり、帰還し御召艦を務めたりするが、その後は練習艦となり、最後は太平洋戦争末期の1945年7月に呉軍港で米艦載機の攻撃を受け転覆する。「磐手」は第一次世界大戦では東南アジアやインド洋に出撃し、その後は練習艦となり、最後は「出雲」同様、1945年7月に呉軍港で米艦載機の攻撃を受けて被弾し浸水着底する。
浅間(あさま)常盤(ときわ)
ロシア艦隊の増強を受けて急遽、イギリスのアームストロング社で製造中であった輸出用装甲巡洋艦を2隻購入して「浅間」「常盤」とした。そのため、六六艦隊計画の第1号巡洋艦である「八雲」よりも早く完成することとなるが、これで巡洋艦6隻体制が完成することとなる。排水量9700tで、20.3cm45口径連装砲2基と15cm40口径単装速射砲14基に、衝角(ラム)が付くなど、他の装甲巡洋艦と同等であるが、装甲は輸出用巡洋艦ということもあり薄く、そのため速度は21.5ktとなっていた。「浅間」「常盤」は共に1899年(明治32年)には完成しており、北清事変に派遣された後、日露戦争では「出雲」「磐手」とともに第二艦隊を構成し活躍する。「出雲」は、第一次世界大戦では遣米支隊に参加しメキシコ沖で座礁するも浮揚し修理することができたが、1935年の大阪湾から呉軍港へ移動中の広島湾での座礁では損傷が大きく、砲門を撤去し練習特務艦へと改修され、そのまま終戦を迎える。「常盤」は、第一次世界大戦に参加後、練習艦となるが、敷設艦「津軽」の老朽化により代艦として敷設艦に改造される。大分県佐伯湾での機雷敷設訓練中の機雷爆発事故により「常盤」は損傷してしまい、修理後しばらくは予備艦となっていたが、敷設艦に復帰し太平洋戦争を通して活動し終戦を迎えた。
春日(かすが)日進(にっしん)
日露戦争開戦直前にイタリアから購入した同型艦が「春日」と「日進」であり、開戦6日後の1904年(明治37年)2月16日に横須賀港に到着する。艦名は、ともに日本海軍創設期の存在艦の二代目である。チリと対立していたアルゼンチンがイタリアに建造を依頼していたところ、チリと和解したため不要となった軍艦で、イタリア海軍独特の前後対象デザインであり、排水量も他の装甲巡洋艦に比べ2000tほど少ない7700tと小型であるが、十分な兵装を備え衝角(ラム)付きであり、速力も20ktである。「春日」の主な兵装は25.4cm40口径単装砲1基と20.3cm45口径連装速射砲1基と15cm40口径単装速射砲14基で、「日進」は20.3cm45口径連装速射砲2基と15cm40口径単装速射砲14基である。「春日」は、旅順港閉塞作戦行動中に防護巡洋艦「吉野」に衝突し沈没させてしまう。同じ日に戦艦「初瀬」「八島」も触雷により沈没しており、そのため「春日」と「日進」は当初は戦艦6隻で構成されていた第一艦隊に配属され、第二艦隊の装甲巡洋艦6隻と六六艦隊を再構築する。日本海海戦では、少尉候補生として山本五十六が「日進」に乗艦していたが、砲身爆発があり左手の人差指と中指を欠損し左大腿部に重傷を負っている。「春日」は、樺太占領作戦にも従事し、第一次世界大戦ではインド洋での哨戒任務に就いた後は練習艦として運用され、太平洋戦争末期の1945年7月にあった横須賀空襲で大破着底し終戦となる。「日進」も、樺太占領作戦に従事し、第一次世界大戦時は地中海で船団護衛任務をし、その後は横須賀に繋留され新兵教育施設として利用される。
高砂(たかさご)
高速と速射により日清戦争で活躍した「吉野」の姉妹艦となる防護巡洋艦が「高砂」で、日清戦争後の第一期拡張計画で発注されたため、機関や兵装が改良されている。「吉野」を建造したアームストロング社エルジック造船所で既に起工され建造中であった「吉野」と同等の防護巡洋艦を日本海軍が購入したものであり、装甲厚を増し主砲を15.2cm砲4門から20.3cm砲2門に強化しており、兵装は20.3cm40口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲10門になり、排水量4155tで速力22.5ktとなった。1898年(明治31年)5月に就役し、北清事変に出動後、日露戦争では第三戦隊に所属して旅順要塞攻略作戦と黄海海戦に参加するが、旅順港閉塞作戦従事中の1904年12月13日に旅順港外で機雷に触れ転覆沈没する。
須磨(すま)明石(あかし)
国産初の防護巡洋艦「秋津洲」を小型改良化した須磨型防護巡洋艦の1番艦が「須磨」で、2番艦が「明石」である。排水量を500t程減らしたため、主砲は半減されたが速力は向上している。「須磨」は、排水量2657tで15.2cm40口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲6門を備え、速力は20ktである。「明石」は2年遅れて竣工しており、排水量2755tで15.2cm40口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲6門と同じ兵装であるが、速力は19.5ktとなる。同型艦でありながら異なる所属で活動する。「須磨」は1896年(明治29年)12月に就役し、日露戦争は「和泉」「秋津洲」「千代田」と第六戦隊に属して戦い、第一次世界大戦ではフィリピン方面の警戒活動後、第一特務艦隊の旗艦となりインド洋方面で行動し、1923年に除籍される。「明石」は、1899年(明治32年)3月に就役し、日露戦争は「浪速」「高千穂」「新高」と第四戦隊に属して戦い、第一次世界大戦では青島攻略戦の後、第二特務艦隊の旗艦として地中海に派遣され船団護衛に活躍するが、1928年に除籍され急降下爆撃の実艦標的となり海没する。
笠置(かさぎ)千歳(ちとせ)
日清戦争後の第一期拡張計画で建造されることになった笠置型防護巡洋艦の1番艦が「笠置」で、2番艦が「千歳」である。移民や貿易で摩擦が生じていた日米関係を緩和する措置としてアメリカに発注されたが、設計は「高砂」を改良したもので排水量が大きくなり兵装が若干強化されている。「笠置」は、1898年(明治31年)10月にフィラデルフィアで竣工し、排水量4862tで20.3cm45口径単装速射砲2門と12cm40口径単装速射砲10門を有し、速力は22.5ktである。「千歳」は、 1899年(明治32年)3月にサンフランシスコで竣工され、排水量4760tで兵装は「笠置」と同じであるが、速力は22.25ktとなる。「笠置」は、1900年の北清事変から出動し、日露戦争にも参加し、第一次世界大戦では青島攻略戦の後、1916年7月に津軽海峡で座礁し船体が破壊したため除籍となり売却される。「千歳」は、1899年に東宮(のち大正天皇)が沼津御用邸から横須賀に移る際、御召艦「八島」とともに供奉艦として同航し、北清事変出動後は、東宮の北九州地方巡啓における御召艦となる。日露戦争には日本海海戦まで参加し、第一次世界大戦では青島攻略戦等に参加した後、1928年に除籍となり土佐沖で実艦標的となり撃沈処分される。
新高(にいたか)対馬(つしま)
日清戦争後の第二期拡張計画で須磨型防護巡洋艦の後継として建造された新高型防護巡洋艦の1番艦が「新高」で、2番艦が「対馬」である。須磨型防護巡洋艦も国産であったが、軍艦国産化の定着が求められ、それまでは横須賀海軍工廠のみで建造されていたものを「対馬」の建造は呉海軍工廠が担当することとし、建造技術の強化向上を図り、これ以降の巡洋艦は全て国産化される。両艦ともに、排水量3366tで速力は20ktであり、主砲として15.2cm40口径単装速射砲6門を有しているが、他の軍艦には装備されている魚雷発射装置は小型艦であることや誘爆リスクの排除を目的に廃止している。「新高」は、日露戦争開始直前の 1904年(明治37年)1月27日に竣工し、仁川沖海戦から参加し、日本海海戦では主に「音羽」とともに行動し活躍をする。「対馬」は、日露戦争開始4日後の 1904年(明治37年)2月14日に竣工し、直ちに日露戦争に投入されコルサコフ海戦で戦果を上げるなど奮闘する。第一次世界大戦では、両艦は「須磨」「矢矧」とともに第一特務艦隊としてインド洋方面で行動し、1921年に二等海防艦へと類別変更される。「新高」は、1922年8月に漁船保護のためオホーツク海を警備中に台風による暴風を受け座礁転覆する。「対馬」は、1939年に除籍され横須賀海兵団練習船となった後、三浦半島沖で雷撃訓練の標的処分とされる。
音羽(おとわ)
「新高」「対馬」とともに建造が決定した防護巡洋艦が「音羽」で、予算の都合で新高型防護巡洋艦よりも小型となる。排水量は一割減の3000tとなり、兵装も15.2cm40口径単装速射砲2門に12cm40口径単装速射砲6門と須磨型防護巡洋艦と同じであるが、雷装は無く、機関が強化されたことから速度は21ktとなる。1904年(明治37年)9月に竣工するとすぐに日露戦争に参戦し、日本海海戦では高速艦主体の第三戦隊に属して活躍し、第一次世界大戦では第一水雷船体の旗艦として青島攻略戦に参加後、1917年7月25日に志摩半島大王崎で座礁し船体が切断され沈没する。
暁(あかつき)
当初、第13号駆逐艦と呼ばれていた日本海軍の最初期の駆逐艦。1880年代に水雷艇が魚雷で大型艦を攻撃するようになると、それに対抗し水雷艇を駆逐(破壊)することを目的とした艦艇が建造されるが、その水雷艇駆逐艇が駆逐艦として発展する。水雷艇を凌駕する速度と、魚雷の有効射程外からの砲撃力を有し、水雷艇よりも大型で航洋性を持つ艦艇であり、さらには魚雷発射管まで備えるようになる。そのため、航洋性を持たず近海でしか運用できない水雷艇に替り、魚雷攻撃が可能な汎用性の高い小型艦艇として駆逐艦は進化する。海軍力強化を図る日本海軍は日清戦争後の第一期拡張計画でイギリスに駆逐艦12隻を発注する。ヤーロー社製の雷型駆逐艦6隻(「雷(いかずち)「電(いなづま)」「曙(あけぼの)」「漣(さざなみ)」「朧(おぼろ)」「霓(にじ)」)とソ-ニクロフト社製の排水量322tの東雲型駆逐艦6隻(「東雲(しののめ)」「叢雲(むらくも)」「夕霧(ゆうぎり)」「不知火(しらぬい)」「陽炎(かげろう)」「薄雲(うすぐも)」)で、雷型は排水量305tで8cm単装砲2門と5.7cm単装砲4門に45cm魚雷発射管2門を備え速力は31kt、東雲型は排水量322tで8cm単装砲1門と5.7cm単装砲5門に45cm魚雷発射管2門を備え速力は30ktであった。これに続く第二期拡張計画で建造された駆逐艦が、ヤーロー社製の暁型駆逐艦2隻(「暁」「霞(かすみ)」)とソ-ニクロフト社製の白雲型駆逐艦2隻(「白雲(しらくも)」「朝潮(あさしお)」)である。暁型は排水量363tとなり兵装は東雲型と同じで速力は31kt、白雲型は排水量322tで8cm単装砲2門に5.7cm単装砲5門と45cm魚雷発射管2門を備え速力は31ktとなる。イギリスの建造を依頼した駆逐艦は16隻までで、次の春雨型駆逐艦(「春雨(はるさめ)」「村雨(むらさめ)」「速鳥(はやとり)」「朝霧(あさぎり)」「有明(ありあけ)」「吹雪(ふぶき)」「霰(あられ)」)からは国内で建造するが、新規設計ではなく艦の前半部はヤーロー社で後半部はソーニクロフト社という両社製の長所を採用したハイブリッドとし、兵装は白雲型と同等である。ボイラーの国産化では性能を発揮できず、排水量は375tで速力は29ktとなった。「暁」は、1902年(明治35年)1月に日本に回航された後、日露戦争の旅順港閉塞作戦中、1904年5月17日に触雷し沈没してしまうが、ロシア側に目撃されていなかったため、捕獲した駆逐艦「レシーテリヌイ」をロシアを欺く目的でそのまま利用する際の日本側艦名として「暁」を使用した。この艦は、後に「山彦」と改称される。
日本海軍 日清戦争
開国により対外交流が増えるにつけトラブルも発生するようになり、宮古島島民遭難事件への抗議として行なわれた台湾出兵や、日本と朝鮮との間の武力衝突である江華島事件では、日本海軍は軍艦を派遣します。台湾、朝鮮ともに宗主国は清国であり、日本と清は次第に敵対関係へと進んでいきます。その際、清国は日本海軍に「東」と「龍驤」という二隻の装甲艦があることを意識し、それを上回る戦艦が必要と判断してドイツに「定遠」と「鎮遠」の建造を依頼します。両艦とも1885年(明治18年)に清国海軍の北洋艦隊に排水量7220tで主砲は30.5cm25口径連装砲2基という東洋一の堅艦として就役し、翌年、長崎に来航しています。日本海軍がイギリスに建造してもらった戦艦「扶桑」は排水量3717tで砲装は24cm20口径単装砲4門と17cm25口径単装砲2門といったもので、「定遠」に対抗できる戦艦を入手したいところでしたが、資金面から購入は難しい状況にありました。そこで、小型ではあるが十分な兵装を持った高速の軍艦を多数用意するという対抗策をとることとします。
そこで、1883年(明治16年)に巡洋艦をイギリスに2隻、フランスに1隻発注します。イギリスで建造された「浪速」と「高千穂」は防護巡洋艦という最新鋭の艦で、蒸気機関のみで航行し、また舷側の装甲を工夫することで軽量化を図っているため高速力を発揮することが可能となっており、その後の巡洋艦の主流となるものです。最大速力は18ktであり「定遠」級15kt程度に比べ高速な軍艦です。フランスで建造された「畝傍」は竣工後、日本に回航する途上、シンガポール沖で消息を絶ち行方不明となってしまいますが、保険金がかけられていたため、それを資金にイギリスで建造され巡洋艦が「千代田」であり、主砲は速射砲10門に統一され、最大速力は19ktでした。
続いての軍備拡張計画では、フランスからエミール・ベルタンを海軍省顧問として招聘し、「定遠」級戦艦の装甲を貫ける巨砲を搭載した巡洋艦を建造します。「定遠」を上回る主砲を艦首方向または艦尾方向に1門だけ装備した特殊艦を用意しペアで運用し「定遠」級戦艦に対抗するというもので、前部主砲艦として「厳島」と「橋立」、後部主砲艦として「松島」が完成しました。しかし、大口径の主砲は当時の技術水準では複雑であり故障もしやすく使い勝手が悪いとわかり、また日本海軍としては小口径の速射砲を持つ多数の高速艦による戦術を計画していたこともあり、4番艦となる後部主砲艦の建造は取り止めて、やや小型となるものの速射砲を計10門備えた最大速力19ktの国内初となる防護巡洋艦「秋津洲」を建造しました。
また、引き続き軍艦の増強が必要と考え、イギリスに新たな巡洋艦を建造を依頼したところ、多数の速射砲を持ち最大速力が23ktとなる高速艦「吉野」を入手でき、この軍艦の完成を以て日本は日清戦争の開戦を決めたともいわれています。
【日清戦争】
1894年(明治27年)に朝鮮国内で甲午農民戦争(東学党の乱)が起き、この鎮圧のため日清両国が朝鮮へと出兵することとなりましたが、それが日清戦争の発端となりました。日本海軍は、1889年に制定された艦隊に関する最初の艦隊に関する法令「艦隊条例」で「常備艦隊」を設けますが、日清関係の緊張高まりを受け1894年に「艦隊条例」を全部改正(勅令第71号)して「警備艦隊」を新設し、それを「西海艦隊」と改称した後、「常備艦隊」と「西海艦隊」からなる「連合艦隊」を編成します。ちなみに、艦隊を後方支援する組織として鎮守府が横須賀・呉・佐世保・舞鶴に設置され、その直轄組織として軍港と造船所を主体とする軍需工場からなる海軍工廠を建設しています。
連合艦隊の第一遊撃隊が、1894年7月25日早朝に朝鮮の豊島沖で清国の巡洋艦2隻と遭遇し豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)が始まり、これが日清戦争の嚆矢となりました。この海戦では、清国側の艦船は沈没したり日本に拿捕されたりしましたが、日本側の損害は無く圧勝といえる戦果を収め制海権を手に入れました。そのため、清国海軍は旅順に立て籠る形となりましたが、9月16日に陸兵を輸送する船団の護衛として清国の北洋艦隊が大連を出港しました。その情報を得た連合艦隊も出撃し、9月17日午後より最大の海戦である黄海海戦(こうかいかいせん)が開始されます。日本海軍は高速で速射主体の第一遊撃隊4隻と低速であるが重火力主体の本隊6隻が一列になる単縦陣をとり、清国海軍は衝角攻撃を意識した横列陣となり、まずは砲撃戦となりますが、清国海軍は速力で勝る日本海軍に追いつくことができず、逆に日本海軍の第一遊撃隊と本隊が連携した十字砲火を浴びることとなります。その後は両軍とも入り乱れての砲撃戦が続けられますが、速度に勝り速射砲による集中砲火が功を奏した日本海軍が優勢となり、清国海軍は四分五裂の状態となり旅順を目指して退却をしてしまい、戦闘は終了します。旅順に戻ったものの、今度は日本陸軍から攻撃を受けてしまい、そこで威海衛に逃げ込みますが、威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)で日本海軍の「小鷹」を含む水雷艇群の攻撃により複数艦が沈没し「定遠」も大破座礁して自沈することとなり、北洋艦隊の丁提督は自決し清国海軍は降伏します。
日清戦争で勝利した日本は1895年(明治28年)3月に「下関条約(日清講和条約)」を結び、朝鮮独立や領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金の支払などを決め、また清国海軍の軍艦を戦利品として入手します。「鎮遠」は威海衛の戦いの際に接収され日露戦争に参加します。ほかに新鋭巡洋艦「広丙」と豊島沖海戦と黄海海戦で逃げ惑った巡洋艦「済遠」も接収しますが、「広丙」は1895年12月の台湾警備の際に座礁沈没し、「済遠」は日露戦争でロシア船「エカテリノスラフ」(後に日本海軍初の潜水母艦「韓崎(からさき)」となる)を拿捕した後、旅順港外で触雷し沈没しています。
ところで、下関条約の内容を確認したロシアは遼東半島割譲に反発しフランス・ドイツととも清への返還を要求する三国干渉勧告をします。日本は、当時の国力からやむなく勧告を受諾することとし、これ以降「臥薪嘗胆」をスローガンにロシアを仮想敵国として軍拡を進め、日露戦争へと歴史は動いていきます。
[豊島沖海戦]
連合艦隊の第一遊撃隊(「吉野」「浪速」「秋津洲」)が、朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と旧式巡洋艦「武蔵」を捜していたところ、1894年(明治27年)7月25日早朝に清国の巡洋艦「済遠」と「広乙」と邂逅し、戦闘が始まります。「吉野」の砲弾が「済遠」に命中し、後続の「浪速」「秋津洲」からも砲撃を受けた「済遠」は白旗と日本軍艦旗をマストに掲げ降伏を装ったため、次に「広乙」を攻め「秋津洲」が座礁させると「広乙」は自爆しました。そのすきに降伏したはずの「済遠」が逃走したため、「吉野」「浪速」が追跡すると降伏を装い、また逃走するといったことが繰り返されている時、清国の砲艦「操江」と英国商船旗を掲揚した「高陞号」に遭遇します。それでも「済遠」は逃走を続けるため、「吉野」が引き続き追撃しますが、浅瀬へと逃げられてしまいます。残った「浪速」は「高陞号」に対応し、「操江」は追いついた「秋津洲」が拿捕しました。
「高陞号」は清国兵1000名強の輸送中であったため、服従を要求しましたが、清国兵による抵抗があり、そこで「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は撃沈を指示しました。「高陞号」沈没後、泳いで「浪速」に向かってきた船員士官は全員救助しています。英国船籍の商船である「高陞号」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こるものの、イギリスの国際法学者が日本側に違法行為はないと解説しイギリス世論は沈静化しますが、その一方「高陞号」に兵や大砲を輸送させた清国に対しては侵略者という印象が強調されることとなりました。
豊島沖海戦では、日本側の損害は皆無で、清国側は「広乙」と「高陞号」が沈没し「操江」が接収されるという結果になりました。
[黄海海戦]
旅順に籠っていた清国海軍の北洋艦隊は、1894年(明治27年)9月16日に陸兵輸送船護衛のために母港としていた威海衛から出航し、陸兵上陸の支援を行なった後、大狐山沖合にいたところを索敵中であった日本海軍の連合艦隊と遭遇します。北洋艦隊は艦首の衝角(ラム艦首)により敵艦を沈没させるべく横一列の単横陣(右翼より「楊威」「超勇」「靖遠」「来遠」「鎮遠」 旗艦「定遠」「経遠」「致遠」「広甲」「済遠」)の隊形をとりましたが、連合艦隊は全艦一斉砲撃ができるよう縦一列の単縦陣とし、北洋艦隊の前方を横切るという作戦を実行します。先導する第一遊撃隊(旗艦「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」)が高速艦による速射主体で砲撃した後、重火力主体の本隊(旗艦「松島」「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」「扶桑」)と連携し、続けて十字砲火を浴びせることができ、集中砲火を受けた「超勇」が沈没し「揚威」も破壊され座礁します。しかし、北洋艦隊側の別動隊であった「平遠」「広丙」「福龍」が参戦し砲撃が行なわれ、「吉野」や「松島」などが被弾します。また、随伴していた樺山資紀海軍軍令部長乗船の仮装巡洋艦「西京丸」が敵前に孤立するといった事態も発生し、その護衛にあたっていた砲艦「赤城」は艦橋を破壊されてしまいます。両軍が入り乱れた形で砲撃戦が行なわれる中、連合艦隊の本隊が「定遠」「鎮遠」に集中射撃をすることができ、第一遊撃隊も加わって北洋艦隊を挟撃する形で、「定遠」「鎮遠」「致遠」「靖遠」にダメージを与えます。その際、「済遠」と「広甲」は戦場から逃亡を図り、「広甲」は座礁し放棄され「済遠」は旅順へ帰還してしまいます。第一遊撃隊の砲撃によって「致遠」が沈没し、また「吉野」は被弾しつつも「経遠」を追撃し沈没させています。壊滅状態となった北洋艦隊は旅順へと帰還し、黄海海戦は終わります。
日本側は「松島」「比叡」「赤城」「西京丸」が大破し「吉野」など多数が被弾し炎上しましたが艦艇の損失はなく、清国側は「経遠」「致遠」「超勇」が沈没し「揚威」「広甲」が座礁、「定遠」「鎮遠」を含む全艦で損害が発生するという結果になりました。
【日清戦争開始時の艦艇】
浪速(なにわ)・高千穂(たかちほ)
当時の巡洋艦は機帆を併用し非装甲であったものを、蒸気機関のみで航行し薄い装甲板や石炭庫で砲弾の威力を低減するという世界初の防護巡洋艦としてイギリスで建造されたチリ海軍向け「エスメラルダ」の二番艦が「浪速」で、三番艦が「高千穂」。排水量は3709tで砲装は26cm35口径単装砲2門と15cm35口径単装砲6門であり、最大速力は18ktとなっている。ちなみに「エスメラルダ」も後に日本海軍が購入して「和泉」となり、最初の防護巡洋艦3隻全てを日本が所有することになる。「浪速」は1886年(明治19年)2月に就役し、御召艦となった後、日清戦争の端緒となる豊島沖海戦に参加して活躍し、日露戦争では第四戦隊の旗艦となるが、1912年(明治45年)6月に北千島への輸送航行中に座礁し沈没。「高千穂」も1886年(明治19年)4月に就役すると、御召艦となった後、日清戦争、日露戦争に参戦し、1911年には敷設艦へと改造され、類別変更で二等海防艦となり海軍水雷学校の練習艦として使用されていたが、第一次世界大戦では1914年(大正3年)の青島攻略戦に参加した際、10月14日にドイツ海軍の水雷艇(小型駆逐艦)「S-90」の雷撃を受け轟沈した。
千代田(ちよだ)
「畝傍(うねび)」の保険金で建造された防護巡洋艦が「千代田」で、舷側に装甲帯を装備しており装甲巡洋艦の魁ともいえる。排水量2439tで12cm40口径単装速射砲10門を備え、最大速力は19ktという高速速射艦となる。1891年(明治24年)1月に就役し、日清戦争、日露戦争に参加後、水雷母艦に類別変更されるが、既に水雷艇はなくなっており実務上は潜水母艦であったが、1922年(大正11年)除籍となる。
松島(まつしま)・厳島(いくつしま)・橋立(はしだて)
「定遠」級戦艦に対抗できる軍艦を用意する目的で建造された特殊巡洋艦で、艦名から「三景艦」と呼ばれる。「定遠」の主砲は30cm20口径であり、それを上回り「定遠」の装甲を撃破れる32cm38口径の主砲を搭載した艦を建造することとしたが、このクラスの主砲を巡洋艦に前後2門搭載させることは物理的に難しいと判断し、艦首方向あるいは艦尾方向に1門ずつ装備した特殊艦を建造し、その2隻をペアにすることとした。その結果、完成した前部主砲艦が「厳島」と「橋立」で、後部主砲艦が「松島」である。「松島」と「厳島」はフランスに建造を依頼したが、「橋立」の建造は横須賀工廠で行なわれ、国産初の大型艦となる。「厳島」が1891年(明治24年)9月、「松島」が1892年4月、「橋立」は1894年6月に竣工している。排水量4278tで32cm38口径単装砲1門のほか12cm40口径速射砲12門(「厳島」と「橋立」は11門)を備え、装甲は40mmと薄いが最大速力は16ktで「定遠」級よりも速い。ペアにするということでは後部主砲艦が不足するが、32cm38口径の主砲は故障も多く、発砲のたび反動で船体が大きく揺れまともな戦闘ができないことから4番艦は建造されず、実戦でも主砲は「三景艦」合わせて12~13発に過ぎず、副砲の速射砲の方が威力を示す結果となった。「松島」は日清戦争では連合艦隊旗艦を務めたが、黄海海戦で「鎮遠」の砲撃を受け大破し、「橋立」が旗艦を引き継いだ。日露戦争では「厳島」が「松島」「橋立」を従えて第三艦隊の旗艦となり参戦した後、士官実習用の練習艦隊が編成されることとなり「松島」「厳島」「橋立」の三艦が対象となった。「松島」は士官候補生の遠洋航海中の1908年(明治41年)4月30日に火薬庫の爆発で沈没したが、「厳島」と「橋立」は1912年に二等海防艦に類別変更があり、「厳島」が1919年、「橋立」は1922年に除籍となる。
秋津洲(あきつしま)
「三景艦」の4番艦となる軍艦であったが、大口径主砲を搭載する巡洋艦に対する疑問視から佐雙左仲(さそうさちゅう)造船官がエミール・ベルタン顧問の計画に対し猛烈に反対したことで、「秋津洲」は新たに設計しなおされた上で建造されたものであり、日本人が初めて設計し建造した防護巡洋艦である。排水量3150tで15.2cm40口径単装速射砲4門と12cm40口径単装速射砲6門を有し、最大速力は19ktである。1894年(明治27年)3月に竣工すると、日清戦争では豊島沖海戦や黄海海戦に参加し、輸入艦に劣らぬ活躍をして国産巡洋艦のプロトタイプとなる。日露戦争の後、1921年(大正10年)に潜水母艦となったが、1927年に除籍される。
吉野(よしの)
日清戦争を回避できないと考えた日本海軍がイギリスに最速の防護巡洋艦を発注し建造させた軍艦で、最新の技術を取り入れた機関により出力は「浪速」や「松島」の倍以上となり排水量4216tで23ktという水雷艇並みの高速を実現した。兵装は15.2cm40口径単装速射砲4門と12cm40口径単装速射砲8門を有しており、高速と速射砲を兼ね備えた巡洋艦の集大成といえるもので、その後の日本海軍は戦艦の拡充を目指すこととなる。「吉野」は1893年(明治26年)9月に就役し、日清戦争では豊島沖海戦と黄海海戦で高速と速射を活かし戦果を上げるものの、日露戦争になると旅順港内にてロシア艦隊を封鎖行動中の1904年(明治37年)5月15日、濃霧により装甲巡洋艦「春日」の衝角(ラム)が左舷中央部に激突し沈没する。
八重山(やえやま)
1890年(明治23年)に最初の通報艦としてエミール・ベルタンが設計し建造された。無線が発達していなかったため、敵艦隊の動向を捉え通知する高速の艦艇が必要であり用意されたものであり、排水量1600tで20ktという最大速力であった。兵装として12cm砲を3門備えている。1890年(明治23年)3月に竣工し、日清戦争、日露戦争で活躍したが、通信技術の進展により役割を終え1911年に除籍となる。
葛城(かつらぎ)・大和(やまと)・武蔵(むさし)
日本海軍は軍艦の建造を国産化するため、1873年(明治6年)に日本初の軍艦「清輝」を竣工させた後、「天城」「磐城」といった1000tに満たない小型艦で経験を積み、次に1000t超の巡洋艦「海門」1381tと「天龍」1547tを建造する。それを発展させ量産を意識して計画建造された巡洋艦が葛城型で、排水量1502tに17cm25口径単装砲2門と12cm25口径単装砲2門の兵装を備えていた。機帆併用であるが最後の帆走艦であり、船体構造は木製から鉄製へと改善され堅牢性が高まっている。また「大和」は初めて民間造船所で建造された軍艦である。「葛城」が1887年(明治20年)11月、「大和」が1887年11月、「武蔵」が1888年2月に竣工される。日清戦争では防護巡洋艦が主力となっていたため、海防警備や練習用として使われ、日露戦争後の1913年に「葛城」は除籍となるが、「大和」と「武蔵」は1922年に測量艦に類別変更され長く在籍する。1928年に「武蔵」が除籍され、1935年には「大和」も除籍され、ともに少年刑務所の宿泊船となる。
摩耶(まや)・鳥海(ちょうかい)・愛宕(あたご)・赤城(あかぎ)
日本で最初に衝角を設けた砲艦が摩耶型である。「愛宕」は横須賀造船所であるが、残りは民間造船所で建造されている。船体構造が進化する過渡期であり、「摩耶」「鳥海」は鉄製、「愛宕」は鋼骨木皮、4番艦「赤城」は鋼製となり、排水量は「赤城」が622tで、残り3艦は614tである。兵装も各艦異なり、「摩耶」は15cm砲2門に4.7cm砲2門、「鳥海」「愛宕」は21cm砲1門と12cm砲1門、「赤城」は12cm砲4門と4.7cm砲4門となる。「摩耶」は1888年(明治21年)1月、「鳥海」は1888年12月、「愛宕」は1889年3月、「赤城」は1890年8月に就役している。日清戦争に参戦し、特に黄海海戦では「赤城」は軍令部長が乗船した「西京丸」の盾となるという活躍をする。日露戦争にも参戦するが、「愛宕」は1904年10月6日に座礁し沈没、「赤城」は砲艦「大島」に衝突し沈没させてしまう。その後、「摩耶」と「鳥海」は1908年、「赤城」は1911年に除籍となる。
西京丸(さいきょうまる)
1888年(明治21年)に商船会社日本郵船がイギリスに建造させた2904tの貨客船であるが、日清戦争開戦により徴用され武装化し仮装巡洋艦となる。兵装は12cm速射砲1門、57mm速射砲1門、47mm速射砲2門である。日清戦争の黄海海戦では、樺山資紀軍令部長が戦況視察の目的で乗船するが、戦闘に巻き込まれてしまう。戦争終了後は徴用を解除され貨客船となり、日露戦争では病院船として活動するが、その後は再び貨客船として就航し、老朽化により1927年に解体される。
小鷹(こたか)
1888年(明治21年)に航洋性のある水雷艇としてイギリスで建造された。当初の水雷艇は「外装水雷(長い棒の先に爆弾を装着し敵艦に体当たりし爆破する)」を装備した小型艇であったが、「魚雷(魚形水雷)」が開発され魚雷発射管を設けるようになった。日本海軍が初めて購入した水雷艇は外装機雷を載せた排水量40tの第1号水雷艇~第4号水雷艇と名付けられた小型船で、魚雷の実用化により魚雷発射管に改装された。それに続く水雷艇が「小鷹」で、新造時から魚雷発射管が搭載され、また外洋航行可能とするために排水量を203tと大型化し、対水雷艇用備砲も設けられた。しかし、船体の大型化は隠密性が要求される水雷襲撃には適さないとのことから、同型艦は建造されなかった。日清戦争では威海衛の戦いで小型水雷艇を率いて2月6日に夜襲をかけ清国艦船4隻を沈没させる戦果を上げたが、日露戦争では内地警備に従事し、1908年に除籍され練習船となる。しかし、また1917年に雑役船(標的船)として復帰するが、1926年に廃船扱いとなり翌年売却される。
日本海軍 創設
明治維新後に軍事防衛を管轄する機関として設置された兵部省は1872年(明治5年)に廃止となり、陸軍省と海軍省が新設されます。
この時に創設された日本海軍(大日本帝国海軍)は、幕府や諸藩の艦艇を編入し、次の17隻で構成されていました。
軍艦としては「東」「龍驤」「富士山」「筑波」「春日」「日進」「鳳翔」「雲揚」「第一丁卯」「第二丁卯」「乾行」「孟春」「摂津」「千代田形」の14隻があり、正式名としては「艦」が付き「東艦」「富士山艦」などと呼ばれていました。他に「大坂丸」「春風丸」「快風丸」という運送艦が3隻あり、計17隻になります。
【日本海軍創設時の艦艇】
東(あずま)
元々はアメリカの南北戦争で使われるはずだったフランス建造の装甲艦「ストーンウォール」を幕府が購入する手配を進めていたが、明治維新により新政府が購入することとなった。その当時、唯一防御装甲のある軍艦であり「甲鉄」と呼ばれていたが、日本海軍編入後に「東艦」と改められている。ただ、排水量は1358tで砲門は6門という当時としては中規模の大きさであった。
龍驤(りゅうじょう)
熊本藩がイギリスに発注した軍艦。木造船体であるが舷側に鉄製装甲帯をもつ装甲コルベットと呼ばれるもので、排水量は2530tあり砲門は10門持ち、当時の日本海軍では最大の大きさと最強の武装を誇るもので、実質的な旗艦の役割を果たしていた。
富士山(ふじやま)
幕府がアメリカに発注した3隻のうちの1隻として完成した排水量1000tで砲12門を持つ軍艦であるが、下関戦争が勃発したため、リンカーン大統領が出航を差し止め、残2隻の製造が中止されたという経緯がある。1866年(慶応元年)に幕府に渡された後、明治新政府に移管され、海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)開設時に初代練習艦となった。
筑波(つくば)
イギリス海軍が建造した「マラッカ」を購入し「筑波艦」と改名した砲9門の軍艦。海軍兵学寮(海軍兵学校)の練習艦となったが、世界で最初の円缶搭載艦で排水量は1947tあり、サンフランシスコまで航海するなど遠洋練習航海が行なわれた。
春日(かすが)
「キャンスー」というイギリス船籍の木製外輪船を薩摩藩が購入し「春日丸」と改名された軍艦で、排水量は1015tで大砲は6門を備えていた。後の海軍提督である東郷平八郎が三等砲術士官として乗船しており、阿波沖海戦で幕府海軍の軍艦「開陽丸」と砲撃戦を行なっている。その後も、宮古湾海戦や箱館湾海戦等で活躍し、明治新政府に移管された際に「春日艦」となる。
日進(にっしん)
佐賀藩がオランダに発注した本マストの蒸気帆走船で、1869年(明治2年)に完成し、翌年6月に海軍籍となり「日進艦」となる。排水量は1468tあり兵装も10門有していたため、主力艦として台湾出兵や朝鮮半島警備等で活躍した。
鳳翔(ほうしょう)
長州藩がイギリスに発注した木製帆走船で、新政府に献納され、1871年(明治4年)に「鳳翔艦」と命名された。排水量321tという小型艦ながら砲門4門を有しており、初期の日本海軍の貴重な戦力であり、1899年に除籍されるまで28年間在籍した長寿艦であった。
雲揚(うんよう)
「鳳翔」と同じ時期に長州藩がイギリスに発注した木製帆走船で、排水量は245tと小さいながらも大きさはほぼ同じサイズであった。1875年(明治8年)に日本と朝鮮の間で発生した武力衝突事件である江華島事件では、朝鮮の江華島と永宗島の砲台から「雲揚」が砲撃を受けたため、反撃砲撃をし交戦となり陸上砲台を破壊し占領している。
丁卯(ていぼう)
1867年(慶応3年)に長州藩がイギリスに2隻発注した木造汽船で、この年が十干十二支のひとつ「ひのとう(丁卯)」にあたることから「丁卯」と名付けられ、同型艦であるため「第一丁卯」「第二丁卯」となった。排水量は236tと小型であり大きさと性能ともに同じであるが、砲門は「第一丁卯」が6門で「第二丁卯」が8門あったといわれている。
乾行(けんこう)
薩摩藩がイギリス海軍の砲艦をしていた「ストーク」を購入して「乾行丸」と命名した軍艦で、1870年(明治3年)に献納されて海軍籍となり「乾行艦」と改名し、その後、繋留練習艦となる。排水量522tで兵装は砲9門を備えており、戊辰戦争時の寺泊沖海戦に「第一丁卯」とともに参加して旧幕府の輸送船「順動丸」を砲撃戦の末、自沈させている。
孟春(もうしゅん)
佐賀藩がイギリスで建造された砲艦「ユージニー」を購入して「孟春丸」と命名した軍艦で、1871年(明治4年)に献納されて海軍籍となり「孟春艦」となる。排水量357tで砲4門と小型艦ではあるが、台湾出兵、江華島事件、西南戦争に参加した。
摂津(せっつ)
アメリカで建造され南北戦争時には北軍で使用されていた「コヤホッグ」という砲艦を1868年(慶応4年/明治元年)に購入して「摂津丸」と命名した。排水量920tで砲8門を持ち、翌年に広島藩に貸与されたが、1871年に変換されて「一番貯蓄船(いちばんちょちくせん)」と改名する。1874年に「摂津艦」と改名した後、海軍省内堀に係留され練習艦として使用された。
千代田形(ちよだがた)
幕府が石川島の造船所で建造した国産蒸気砲艦で、量産化の計画があったため千代田「形」としたが、2番艦以降は建造されなかった。函館戦争で座礁した後、漂流していたところを新政府軍が接収し、艦名を「千代田形艦」とし海軍兵学寮(海軍兵学校)の練習艦として使用される。
大坂丸(おおさかまる)
元は1866年(慶応2年)にイギリスで竣工した鉄製気船「OSAKA」で、豊津藩が購入した後、1870年(明治3年)に献納されて「大坂丸」と命名された。1871年に護送船、翌1872年に輸送船と定められ、1875年12月25日に長崎から東京へ兵器を輸送中に周防灘で「名古屋丸」と衝突し沈没した。
春風丸(しゅんぷうまる)
カナダで建造された木造帆船で運送船として使用されていたが、1873年(明治6年)に海軍省へ移管し「肇敏(ちょうびん)丸」となる。1877年の西南戦争で輸送任務に従事した後、練習船に指定され、1879年になって「肇敏艦」と改名した。
快風丸(かいふうまる)
アメリカの木造帆船「ゴーウルノルワラス」を備中松山藩が購入し「快風丸」と命名した。1868年に軍務官所管となり、1869年に兵部省(陸軍部)所管となった後、兵部省(海軍部)に移管され1881年まで石炭輸送等に従事していたが売却されている。
こののち、海軍力強化のため、軍艦の増強を図ることとしますが、日本はまだ軍艦の造船技術が未熟であったため、当時としては最先端の技術力を誇っていたイギリスに戦艦「扶桑」巡洋艦「金剛」「比叡」の3隻を発注することとしました。ただ、軍艦の国産化も目指す必要があることから、造船所を建設して外国人を招き国産軍艦の建造も進めています。1873年(明治6年)に横須賀の造船所にてフランス人技師の指導の下、日本初の軍艦「清輝」が起工され、二年半後に竣工しています。排水量897tで、15センチ砲1門、12センチ砲4門、6ポンド砲1門、機砲3基という兵装であり、日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征をしています。
扶桑(ふそう)
イギリスに発注した最初の装甲フリゲイトで、1878年(明治11年)に日本に回航され、最新鋭艦であったため、天皇のお召艦としても使用された。排水量は3717tと日本では最大規模であるが、当時の欧州の主力艦は10000t以上であったためミニ戦艦であり、近距離は蒸気機関で航行し長距離は帆走するという機帆併用船であった。帆は燃えやすい上に砲撃戦時は邪魔となるため、帆装は撤去し蒸気船へと近代化改装が行なわれ、併せて武装も新型の速射砲と水上魚雷発射管が搭載されている。日清戦争に参加した後、「松島」と衝突し沈没したが、浅瀬であったため引き上げることができ修理をして日露戦争にも参加している。
金剛(こんごう)・比叡(ひえい)
イギリスに発注した最初の装甲コルベットで、「金剛」と「比叡」は同型艦であり、1878年(明治11年)に日本に回航されている。排水量は2250tと「扶桑」よりは小さく巡洋艦と呼ばれた。両艦そろって士官候補生の実習訓練で地中海方面遠洋航海に従事し、1890年には座礁沈没したトルコ軍艦「エルトゥールル」号の生存者をコンスタンチノーブルへ送還している。その後、日清戦争、日露戦争に従軍した後、1909年に「金剛」、1911年に「比叡」が除籍となり、売却されている。
日本海軍 通史と類別
軍艦とは、各国の軍隊に所属し、国籍が明示され、士官の指揮下にあり、軍隊規律に従った乗組員が配置された船舶のことです。
軍艦旗が掲げられ軍隊に属する士官を含む乗組員がいれば、陸軍が有する非武装の輸送船も軍艦といえます。ただ一般的には、海軍に所属し戦闘力を持つ艦船を指して軍艦と呼びます。
ちなみに、日本海軍(大日本帝国海軍)では、艦首に菊花紋章がついた艦艇を軍艦と定義していました。
日本海軍は、1872年(明治5年)に海軍省が設置され、江戸幕府からの接収したものに諸藩から献上されたものを併せた17隻で始まり、軍艦は14隻で、残り3隻は「××丸」と名付けられた運送船でした。
四方を全て海で囲まれた島国であるため海軍の整備は急務と考えられ、イギリスに建造を依頼したり、士官養成のための兵学校を設立します。また、横須賀に造船所を建設し、フランス人技師を招いて軍艦の国産化を目指します。
征韓論や台湾出兵などにより清国との関係性が悪化し戦争化が免れないという状況となりますが、清国の方でも対日戦争は不可避と判断し主砲4門を持つ「定遠」「鎮遠」という最新鋭の戦艦を用意します。それに対し、当時の日本は財力が不足しており「定遠」を上回る戦艦を建造することはできず、そこで小型ではあるものの高速の巡洋艦を多数用意して対抗する方針とし、装備する艦砲もイギリスのアームストロング社製速射砲に統一しました。ただ、それだけでは不安を感じ、1門だけですが「定遠」を上回る主砲を持つ三景艦「松島」「厳島」「橋立」という防護巡洋艦も用意しています。
そして日清戦争直前には31隻の軍艦を有するようになり、それを当時唯一の戦艦であった「扶桑」をはじめとする優秀艦からなる常備艦隊と、主に警備や哨戒を担当する旧式艦や小型艦の西海艦隊の2つの艦隊が設けられ、日清戦争時には常備艦隊と西海艦隊を合わせた「連合艦隊」として運用されました。
日清戦争に勝利し、清国から「鎮遠」等を編入し多少は増艦したものの、海軍力としては未だ整備された状態ではありませんでした。特に、三国干渉後の日露関係の悪化からロシアを仮想敵国とした場合、その戦力差は大きなものとなっていました。そこで、1896年提案の『海軍拡張計画』により、まずは戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる六六艦隊を実現させ、他に防護巡洋艦6隻や駆逐艦23隻、水雷艇63隻等も建造し、イギリス、フランス、ロシアといった海軍国に次ぐ規模にまで成長させています。
この頃の海軍の艦艇は、軍艦と運送船といった類別ではなく、1898年(明治31年)の「海軍軍艦及水雷艇類別標準」の制定により、軍艦という大型船と水雷艇という小型船の2種に分けられるようになります。駆逐艦は、もともとは水雷艇駆逐艇と呼ばれ、水雷艇を駆逐するための船艇でしたが、徐々に大型化し駆逐艦と呼ばれるようになりましたが、日本海軍での類別では軍艦に組み込まれることはありませんでした。
1902年には世界一の海軍力を誇るイギリスと日英同盟を結び、戦略的にも日露戦争に向けた準備をとるようになり、連合艦隊も、戦艦6隻の第一艦隊、装甲巡洋艦6隻の第二艦隊、日清戦争時の主力艦からなる第三艦隊として構成し直されます。
ロシアは、旅順とウラジオストックに極東艦隊を配置し、本国側には主力といえるバルチック艦隊を有しており、日本海軍の2倍程度の勢力を保有している状態でした。しかし、日露戦争が始まると、ロシアはバルチック艦隊をバルト海から日本まで、ほぼ地球を半周させる必要があり、それまで日本海軍は極東艦隊のみとの戦闘となります。新型艦により統一された戦闘が行なえる日本海軍が優勢となり、バルチック艦隊がインド洋マダカスカル島を進んでいる頃、極東艦隊は全滅してしまいます。そして、バルチック艦隊が日本海に到達し日本海海戦が始まりますが、長い航海を続け疲弊が溜まるバルチック艦隊に対し、整備と訓練を重ねていた日本海軍は圧勝といえる成果をあげました。この戦勝により、日本は世界の一等国の仲間入りを果たします。
ところで、イギリスは日露戦争での海戦結果を教訓として、新たな戦艦「ドレッドノート」を建造します。これは主砲の口径や砲門を強化して1隻で2隻分の戦闘力を持ち、機関もレシプロからタービンへと改良することで高速化を実現したものです。この艦の出現により、それまでの軍艦は全て旧式とされ、戦力とみなされないような位置づけになります。日本海軍は軍艦の国内建造化が進展していたところでしたが、「ドレッドノート」級の建造技術は有しておらず、またイギリスに巡洋戦艦「金剛」の建造を依頼します。ただし、「金剛」から最新技術を習得してスキルを向上させ、あらためて国内建造を推進していきます。
その頃、欧州では露西亜に変わりドイツが海軍国として成長し、イギリスと覇権を競うようになり、第一次世界大戦へと向かいます。日本も参戦はしますが、ほとんど戦闘を行なうことはないまま、戦勝国となります。
第一次世界大戦後は戦火を交えたイギリスは国力が低下し、その代りイギリスと同盟関係にあった日本とアメリカの軍事力が増強されることとなりました。そこで、太平洋を挟んで隣国となる日本とアメリカは徐々に敵対関係となり、日本はアメリカを仮想敵国として軍事力強化を図ることになります。
日米とも軍艦建造競争が激しくなるとともに国家財政へと影響を与えるようになり、ワシントン及びロンドンでの軍縮会議が開かれますが、最終的には帝国主義的は世界情勢から、無条約状態となり戦艦「大和」「武蔵」といった戦争に向けた軍艦建造へ盲進する、後戻りができない果てしなき道を突き進んでいくこととなります。
【軍艦の類別】
第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まる頃の日本海軍には、軍艦として戦艦・航空母艦・巡洋艦・水上機母艦・潜水母艦・敷設艦・練習戦艦・練習巡洋艦・砲艦・海防艦が存在し、艦首に菊の紋章が許されましたが、駆逐艦・潜水艦は、その他の船艇とともに軍艦としては位置づけられませんでした。
<戦艦>
主砲により敵の艦船を攻撃する艦艇で、艦隊の主力といえるものです。かつては、装甲を強化するため速度が犠牲になっており、軽装甲で速度重視の戦艦を巡洋戦艦として建造していましたが、機関の改良や装甲技術の高度化により高速で重装甲の戦艦が建造できるようになり、巡洋戦艦という艦種はなくなりました。日本海軍の代表的な戦艦として「大和」「武蔵」「長門」などがあります。
<航空母艦>
飛行甲板を持ち航空機を搭載して敵を攻撃する艦艇で、略して「空母」と呼ばれます。海戦の主体が砲撃から空撃へと移ったことから、艦隊の主戦力になります。艦種としては1920年頃に生まれたもので、当初は水上機母艦を指していましたが、飛行甲板を設けることにより通常の航空機を艦載する航空母艦を指すようになり、水上機母艦と区別されるようになります。日本海軍の代表的な空母として「赤城」「加賀」「翔鶴」などがあります。
<巡洋艦>
快足を活かし偵察や索敵、襲撃を行なう、戦艦に次ぐ艦隊の主力艦艇で、基準排水量や備砲の口径により戦艦と差別化しています。また、同様な区別により「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」に分類わけしています。代表的な重巡洋艦としては「妙高」「高雄」「最上」などがあり、軽巡洋艦には「長良」「阿賀野」「大淀」などがあります。
<水上機母艦>
水上機を搭載し主に偵察を行なう艦艇で、当初は「航空母艦」と呼ばれていましたが、航空甲板を持つ空母が建造されるようになり差別化されました。代表的な水上機母艦として「千歳」「千代田」がありますが、この2隻は空母へと改装されています。他に「瑞穂」「秋津洲」などがあります。
<潜水母艦>
潜水艦の補給や乗組員の休養に使われる艦艇で、最初は水雷母艦でしたが、潜水母艦と名称変更されたものです。代表的な潜水母艦として「迅鯨」「大鯨」「剣埼」がありますが、「大鯨」は空母「龍鳳」に、「剣埼」は空母「祥鳳」に改装されました。
<砲艦>
中国の揚子江流域に常駐させた河川用艦艇で、小型軽武装となっています。最初の砲艦「宇治」は国産艦艇で、日本海海戦にも参加した航洋型砲艦でしたが、続く「隅田」「鳥羽」「勢多」などは河川用に特化した航洋性の無い艦艇です。その後は、航洋性のある「嵯峨」「安宅」などや河川専用の「熱海」などが建造されました。ちなみに、1944年(昭和19年)の類別の改定で、砲艦は軍艦から除かれます。
<敷設艦>
機雷を敷設するための艦艇で、敵潜水艦の侵入を防ぐ防潜網を展開することもありました。当初は日露戦争の戦利艦を転用していましたが、「勝力」を新造し、その後「厳島」「八重山」などを建造します。また防潜網の敷設に特化した急設網艦「白鷹」なども建造されています。
<海防艦>
老朽化した戦艦や巡洋艦などが転籍し沿岸防衛などのほか外交任務にも就くことがある艦種で、旧式といえども歴戦の勇艦であるため、艦長は大佐が務め艦種には菊の紋章が付けられました。ところが、太平洋戦争開戦を見据え北方警備を担当する新造艦として「占守」が建造され、開戦後は護衛艦としての海防艦の必要性が高まり「択捉」「御蔵」「鵜来」などが大量に建造されることになり、1942年(昭和17年)に軍艦から独立します。より小型化、簡易化した砲艦も建造されましたが、そちらには艦名はなく番号が振られました。
<練習戦艦>
ロンドン軍縮条約により既存艦の削減が求められ、巡洋戦艦「比叡」が対象となり、武装・装甲・機関の一部を軽減して保有することが認められ、練習戦艦と呼称されることとなりました。練習戦艦は「比叡」1隻だけです。
<練習巡洋艦>
士官候補生の遠洋航海などの教育訓練を目的とした艦艇です。最初は日露戦争時の装甲巡洋艦を利用していましたが、老朽化や士官増員に対応するため、練習艦任務に特化した巡洋艦を用意することとし、「香取」「鹿島」「香椎」の3隻が建造されています。教育目的から設備としては充実していることから、戦時には艦隊旗艦として活用されました。
<駆逐艦>
敵の水雷艇を撃退するための艦種で駆逐艇と呼ばれていましたが、魚雷を搭載するようになり水雷艇の役目も併せ持ち、船体が大型化することにより駆逐艦と呼称されます。水上艦艇でもっとも高速であるため、雷撃戦の主役としてはもちろんのこと、艦隊の警戒や護衛としても重用されることとなり、数多く建造されました。代表的な駆逐艦としては「吹雪」「秋月」「島風」などがあります。
<潜水艦>
海中に潜航できる艦艇で、当初は潜水艇と呼ばれて湾内など艦艇泊地での活動でしたが、ドイツのUボートの技術を導入し巡洋型潜水艦が建造されるようになりました。大小様々な潜水艦がありますが、中には水上攻撃機を搭載する潜水空母ともいうべき潜水艦も建造されています。潜水艦には艦名はなく、大型の一等艦は「イ」号、中型の二等艦は「ロ」号、小型の三等艦は「ハ」号とし、それに続けて番号が振られていました。
【軍艦の艦名】
日本海軍創設からしばらくは自由に付けられていましたが、日露戦争後に艦種ごとに命名基準が設けられます。
戦艦:旧国名「大和」「武蔵」など、「扶桑」は日本国の異称
重巡洋艦(巡洋戦艦):山岳名「金剛」「比叡」「妙高」「高雄」など
練習巡洋艦:神社名「香取」「鹿島」「香椎」
航空母艦:空を飛ぶ瑞祥動物から「鳳翔」「飛龍」「翔鶴」など
空母量産により山岳名を追加「葛城」「天城」など
水上機母艦:瑞名「千代田」「千歳」「瑞穂」など
潜水母艦:鯨が付く語「迅鯨」「長鯨」「大鯨」など
一等駆逐艦:天候や海洋に関係する「吹雪」「朝潮」「陽炎」など
二等駆逐艦:植物名「樅」「若竹」「松」など
潜水艦:大型は「イ」、中型は「ロ」、小型は「ハ」とし、番号を採番
砲艦:名所旧跡名「宇治」「嵯峨」「熱海」など
敷設艦:島名「厳島」「八重山」など、設網艦は鳥名「白鷹」など
海防艦:島名「占守」「択捉」「御蔵」など
特務艦:海峡や岬、半島の名など
工作艦「明石」給油艦「知床」「剣埼」給糧艦「間宮」運送艦「宗谷」
水雷艇:鳥名「千鳥」「友鶴」「鴻」など
計画や建造の途中、あるいは改装により艦種が変わることがありましたが、その場合でも元の艦名を引き継ぎました。
「赤城」計画時は巡洋戦艦であり山岳名がつけられたが、空母に改装
「加賀」計画時は戦艦であり旧国名がつけられたが、空母に改装
「金剛」「比叡」など 巡洋戦艦から戦艦に変更となったが、艦名はそのまま
「最上」軽巡洋艦として計画し河川名であったが、重巡洋艦に改装
「千代田」「千歳」水上機母艦から空母へ改装したが、艦名はそのまま
ただし、潜水母艦から空母への改装では艦名が変わっています。
「大鯨」は「龍鳳」に、「剣埼」は「祥鳳」へと変更